4月26日(日)リトルシープアワー「弟子たちの前に」


 
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4月26日(日)礼拝讃美


 
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4月26日(日)礼拝メッセージ「復活の主に召されたサウロ」

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4月26日(日)礼拝メッセージ「復活の主に召されたサウロ」要旨

「復活の主に召されたサウロ」(使徒行伝9章1節~9節)
 
 ある時、パウロ(サウロ)は、はっと気づかされました。もし、この苦しみがなたったら、自分という人間は、強く大きく、そして優秀な人間の世界だけしかわからない、実に平面的で、薄っぺらな片寄った人間になっていただろう。神を認めず、人に頭を下げず、自信過剰で傲慢な人間になっていたのではないだろうか。このような苦しみがあったからこそ、今日の自分があり得たのだ。と。
 そして、後にコリント人への第二の手紙12章7節以下で語っていることですが、自分の弱さの中にこそ、キリストの恵みの力が十分に現されていたことにパウロは気づいたのです。即ち、このような苦しみの故にこそ、自分は、傲慢に陥らず、神を信じ、人々を愛することが出来てきたことに、しみじみと気づいたのです。
 神は、私たちの出会う苦しみ、悲しみを引用し、活用し、逆用して、私たちの為に役立ててくださいます。それが試練です。パウロの経験した重い病気もまさにそれでした。ここに神の愛と導きと助けがあるのです。
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ人への手紙8章28節 
 大きな苦しみの中で、神の深い愛のご配慮を知ったパウロの心には、讃美がわきあがりました。神の愛と真実に満ちたみこころを知った時、苦しみは讃美に変わりました。弱さは強さに逆転しました。
 私たちの出会う苦しみは不思議です。苦しみは神秘的です。苦しみは喜びや笑い以上に私たちを成長させます。救われた人生にも、苦しみの反面があります。
 イエス・キリストは言われました。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている ヨハネによる福音書16章33節  
 主に召されたものにとって、試練の中にこそ祝福のカギがあります。私たちの弱さは強さに変わります。ですから、どんな条件にも、どんな環境にも、私たちは打ち勝つことが出来ます。苦しみは、キリストの恵みによって讃美に変わるのです。「なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」コリント人への第二の手紙10章

4月19日(日)リトルシープアワー「エマオへの道」


 
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4月19日(日)礼拝讃美


 
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4月19日(日)伝道礼拝メッセージ「苦悩から救われる神」

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4月19日(日)伝道礼拝メッセージ「苦悩から救われる神」要旨

「苦悩から救われる神」(詩篇107編17節~22節)

 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い・・・詩篇107編19節 
 私たちの人生には、誰に対しても、いろいろな苦しみのときがやって参ります。自分が原因で起こる苦しみも当然あります。結局自分自身の罪(過ち)のゆえに、そのために引き起こす苦しみ、あるいは交通事故のように、後から追突されるという、自分にとっては不可抗力といえる意味でやってくる苦しみや問題も人生にはあります。
 又、自分では、良かれと思って一生懸命やってきたけれども、何か歯車がかみ合わなくてうまくいかなくなったということもあるでしょう。牧師という仕事をさせて頂いて、いろいろな人に出会いますが、そんな中で、人間の心の内面というか、裏面といおうか、そのようなところに目を留める機会が多くあります。
 とても幸せそうに見える人たちもいらっしゃいます。いい身分だなぁと思えますし、一流大学を出て家庭も恵まれていらっしゃるようだし、何の不満もないだろうと思われる方も多くおられます。
 しかし、そうした一寸見るとうらやましい条件がそろっていると思われるにも拘らず、ご本人は苦しくて、つらくて、もう死んだほうがましだと思っていらっしゃる方に、出会うことがあります。
 聖書には、彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い・・・とあります。
 多くの人々は、神様は、本当にいるのか、いないのか、という議論をするのは好きですが、実際は、自分が直面している問題をつらい、苦しい、惨めだといいながら、何一つ手を打っていないということが案外多いのです。小さな子供が何かを求めて泣きわめいていることがよくあります。自分の格好などおかまいなしにただひたすら、自分の要求を親に求めて泣き叫んでいます。すると、親はあまりの熱心な求めに対して、つい応えてしまうようです。
 それと同じように、私たちも切実な求めを神さまに向かって叫びたいものです。
 イエス様が町を通られた時、道端に座っていた盲人が、「主よ、私たちをあわれんで下さい。」と助けを呼び求めました。すると、イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。マタイによる福音書20章34節 とあります。
 私たちがイエス様の名を呼び求めるときに、私たちに対する神様の祝福の第一歩が始まるのだということを覚えましょう。

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