10月26日(日)礼拝メッセージ「信じた者の群れ」要旨
「信じた者の群れ」(使徒行伝4章32節~37節)
三木清は、その「人生ノート」の中で「ねたみ」について、次のような意味のことを書いています。
「ねたみによって、人間性は生まれつき善であるということに疑問を感じさせる。ねたみは、いろいろなことを想像し、自ら想像し他者に対して嫉妬する。ねたみは、自分より幸福な状態にある者に対して起る。だが、その違いが『高嶺の花』ではなく、自分も相手のようになれるという場合である。しかも、嫉妬は、ねたまれる相手の位置に、自分と高めようとするのではなく、彼を自分の位置にまで低めようとするのが常である。」
キリスト教が迫害されていた頃のことですが、あるカトリック教会に一人の司教がいました。彼は、どのような迫害にも、拷問にも負けることのなかった信仰の勇者であり、豪傑だったのですが、ある日、部下のものが彼に耳打ちして、この司教の友人の一人がアレキサンドリヤの司教に昇進したと告げました。自分より早く友人が出世したことを知ったその瞬間、この司教の顔は曇ったと言うことです。
会社の同期で入った友人が自分より先に、課長になり、部長になり、自分より早く昇進したときに、その友人のために素直に喜べないものが、私たちにはあるのではないでしょうか。この医学が発達し、良い薬も沢山作られている時代ですが、私たちはまだ、ねたみをいやす良薬にはお目にかかったことがありません。
しかし、バルナバは、この妬みに勝利しました。第一コリント13章4節「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。」使徒行伝11章21節~24節「そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。」こうして、大勢の人が主に導かれた。彼が立派な人物であり、慰めの子であった。美しい品性の秘密も実はここにあったのです。
その成功した奉仕の原動力も実は、聖霊と信仰に満ちている人であったというところにカギが有ったのです。ここに又、私たち希望があります。私たちも神に心を明け渡し、聖霊に満たされ、聖霊に支配された生活をするときに、私たちは、変えられるのです。そして、私たちを通して、キリストが見られ、キリストが知られ、キリストが崇められるようになるのです。
10月19日(日)伝道礼拝メッセージ「わが避け所」要旨
「わが避けどころ」(詩篇91篇1~4節)
「便利屋の元祖」と言われている右近さんは、中国大陸で生まれましたが、終戦で家族は九州、佐賀県に引き揚げ、中国二年になったときに、一家で東京に移り住むことになりました。
両親は、理髪店や喫茶店を経営していたため、夜遅くまで子供たちは放っておかれました。地方から出てきて、中学の授業についていけず、学校は休みがちになって、自然に面白そうな新宿の繁華街へ足が向くようになり、そこで格好よく見えたヤクザ仲間に引かれて、暴力団事務所に出入りするようになりました。高校二年の五月、死んでいた家の近くの京王線明大前の駅を出ると外国人がパンフレットを配っていました。
その外国人と目と目が合ったとき、これまで見たことも無いような笑顔でニコッとされたのですが、この時の彼の笑顔が自分の人生を全く変えることになったと右近さんは語っています。その外国人はマカルパインという名前の宣教師でした。そのとき、日曜日に教会である集会に誘われて、キリスト教には全く関心はなかったのですsが、あのニコッとした笑顔に会えると思うと、つい日曜日になると足は自然に教会に向かっていました。
やがて、右近さんはヤクザと手を切り翌年2月洗礼を受けました。大学を卒業後物事にとらわれない自由な生き方を求めてやがてたどり着いたのが便利屋の仕事でした。
以来、彼は着慣れた作業着でどこへでも出かけ日曜日には教会の礼拝を休んだことがありません。どんな境遇にあっても、いつも「神様に喜ばれる生き方がしたい」と願い続けて来たとのことです。
少し前に全国ネットのテレビ番組で、右近さんの型破りな生き方が紹介され、放映後全国から次々と反響が寄せられ、以前にもまして、地方の商工会議所やロータリークラブ、学校などから講壇以来が続いています。そして、どこに招かれても、前半は便利屋としての仕事の話、後半は宣教師の笑顔に出会って自分の人生が変わったことを話しています。そこで、出てくるのが、皆にぜひ知ってほしいと願っている聖書の御言葉です。
「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。」詩篇1篇2~3節
10月12日(日)礼拝メッセージ「御言葉を大胆に語る」要旨
「みことばを大胆に語る」(使徒行伝4章23節~31節)
ペテロとヨハネの報告を聞いた人は祈りました。 僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。使徒行伝4章29節このところを口語訳聖書は、思い切って大胆にと強調していますが、原文は直訳すると「あらゆる大胆さをもって」と記されています。
ギリシャ時代の昔から、人間の自由はまず、言論の自由にあるとされてきました。そして、コリント人への第二の手紙3章17節で、主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。といっています。
もちろんここで、(自由)だと言っても、何を語ってもかまわないというわけではありません。(大胆に語る)この言論の自由というものは、クリスチャンが神の僕(奴隷)であって、神の御用に用いられるために選ばれて救われてクリスチャンとされているのだという自覚から生まれてくるものです。
私たちの伝道の働きも、神の御言葉を語らせていただく神の代弁者にすぎないという自覚から生まれてくるのです。
私たちクリスチャンは、この世の考え方、又、自分の主張をするのではなくて、神のみことばを語る限りにおいて、自由に確信をもって語ることが許されている人間なのです。神のみ旨ににも従い、神以外に何者からも自由である時にだけ大胆に何者をも恐れず確信を持って神の身言葉を語ることができるのです。
インディアン伝道に、その短い生涯をささげたディビット・グレイナード(1718~1747)は、日記に次のように記しています。「この世において、よいわざをなし、神の働きを成し遂げる。すなわちキリストのなし給うたみわざをなすことほど、価値あるものはありません。この世において、神のために生き、神のみ旨に従い、みこころの全部を行うこと以上に満足を与えるものはありません。」
私たちも神から期待されている通りに真理のみことばを人々に大胆に語り続けさせて頂きたいものです。




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