5月25日(日)礼拝メッセージ「主の証人」要旨
「主の証人」(使徒行伝1章6節~8節)
もう、大分前のことですが、アメリカで一人の青年が殺人の容疑で逮捕されて裁判にかけられました。それは、別の青年が「私は、彼が殺すのを見ました。」と証言したからです。
殺人容疑の青年の家は貧しく、弁護士も頼むことが出来ませんでした。その青年の年老いた母親は、まだ若き日のエィブラハム・リンカーンに泣きつき、「私の息子をどうぞ助けてください。私の息子は絶対人殺しなどをする子ではありません。」と頼みました。
リンカーンは、そのかわいそうな親子のために一生懸命に手を尽くしました。しかし、殺人の現場を目撃したという生き証人がいては救いようがありませんでした。
ところが、リンカーンは殺人が行われたと言う日のカレンダーを見ているうちに重大なことを発見いたしました。そして、これは必ず裁判に勝てるという確信を得ました。あの生き証人は、「私は彼が殺すのを月明かりではっきり見ました。確かに彼でした。」と法廷で証言したのです。
しかし、リンカーンの目の前にあるカレンダーによれば、その夜は月の出ない日だったのです。闇夜に月明かりとの証言・・・・・・とうとう、この生き証人こそ、真犯人であったことがわかり、容疑者だった青年は無事救われました。
証人といううのは、どんな場合にも非常に重要です。証人は、あくまでも見たとおりの事、聞いたままの事を自分の都合や、誰かに頼まれて偽りを語るならば、偽証罪に問われることは勿論のこと、無実の人を死においやったりして、大変なことになります。
イエス様は使徒行伝1章8節で言われました。 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
私たちクリスチャンは、ひとりひとり、イエス様の証人としてこの世に生かされているのです。なぜなら、私たちが、今、クリスチャンであるということは、私たち自身の知性や意思の働く前に神様の見えない力、聖霊によって教会に導かれ、聖書を読んで理解し、即ちすげてのクリスチャンは聖霊の内住を受けているのです。
従って、私たちは、イエス様について知っていること、イエス様が自分にしてくださったことを、まだイエス様を知らない人々に証人として、語り伝えることが期待されているのです。
5月18日(日)伝道礼拝メッセージ「主に信頼せよ主が成し遂げてくださる」要旨
「主に信頼せよ主が成し遂げてくださる」(詩篇37篇3~9節)
「貧乏少年、大統領になる~李明博の信仰と母の祈り~」という題の本が、小牧者出版から発売されました。1941年、大阪で生れた李さんの家族は、終戦後母国である韓国に帰りました。厳しい貧しさの中で苦学して働きながら大学を出て、当時はまだ零細企業であった現代建設という会社に入社、29歳で取締役、36歳で社長になり、47歳の時取締役会長に就任して現代建設という会社を韓国のトップ企業にまで押し上げる力となりました。
その後、国会議員となどの要職を歴任、2002年韓国の首都ソウルの市長となり、公約通り20万人の人々を説得して清渓川(チョン・ゲ・チョン)の復元事業を成し遂げました。昨年末の大統領選挙で当時の与党の候補に対し、531万票の差をつけて圧勝して第17代の韓国大統領に選ばれました。
キョン・ヒヤン教会の長老(役員)さんですが、毎週礼拝に通って教会の駐車場の奉仕なども忠実に行って来られた謙遜な主のしもべであられます。
彼は、この本の中で語っています。「私たちの人生には、いつ何が起るかわかりません。しかし、神様は、どのような環境の中でも私たちを守ってくださり、祝福下さいます。私たちが祈りながら、自分の行動によって、人から尊敬を受ける存在になるなら、神様は私たちを大きく祝福してくださり、この国を地球上で一番良い国にしてくださることを信じます。そして、私はいつも希望を持っています。神様を信じる人と、信じない人には違いがあります。神様を信じる人は、どんなことがあっても絶望せず、希望を持つことが出来るのです。
この世の知恵で生きるなら、飛び上がって喜ぶ時もあれば、ひどく落ち込んで絶望してしまうこともあります。しかし、私たち信仰者は、どんなに苦しい時も、神様が私たちの手を握っていて下さるので大丈夫です。私たちは、いつも希望を持たなければなりませんし、その希望は、神様が実現させて下さいます。私は、このことを信じます。」
5月11日ペンテコステメッセージ「聖霊による力」要旨
「聖霊による力」(使徒の働き1章1節~8節)
イエス様が地上をお去りになる時の最後の使命は「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。(使徒行伝1章4節~5節)という事でした。主が天の父なる神の元に帰られて後、弟子達が十日間祈り待ち望んだとき、皆が聖霊に満たされました。そして、そこからこの世界に始めて教会が出来上がったのです。学問も無い、お金も無い、この世的な力もない人たちばかりでしたが、しかし、聖霊に満たされたとき、この弟子たちは伝道を開始しました。
そして、神様は次から次へと救われる人を起してくださいました。ペテロの一回の説教で3000人もの人が救われるほどでした。
これは、人間の力ではありません。神の御霊の働きによるのです。「天地を造られた神は、人をもつくり変えて、正しくきよき魂をもつ身としてくださる。」という聖歌がありますが、神にとっては、天地宇宙を造られることのほうが、人の心を造りかえるよりも易しいのです。罪人を造りかえて、一人のきよい聖徒とする為には、一人子を犠牲としなければならなかったのです。
全能の神であっても、私たち人間の心をかえるためには、キリストの十字架の使徒御霊の働きなしには出来なかったのです。ですから、わたしたちは、お祈りするときに「私たちの内に御霊を満たしてください。」と祈ることが大切であります。私たちが力の源動力である御霊をもっているならば、「走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ書40章31節 電燈は、電流が流れているならば明るく光っています。しかし、スイッチを切ってしまったら明るく光ることは出来ません。
その様に、神様には全能の力があるのですが、信じなければ自分のものとはなりません。しかし、信じて神様につながっているならばいくらでも無限に力を神様からいただく事が出来るのです。
私たちは、一年中毎日、毎日忙しく働かなければなりません。しかし、御霊を内に宿しているならば、日毎に新しい力が与えられるのです。ですから、わたしたちは朝ごとにその日の為に祈り、待ち望み、信じて神様の力によって歩むことが必要なのです。聖書を読みますと聖霊のことを「露」に例えているところがあります。
昼の暑さで弱り、しおれてしまった草花も夜に降りてくる露によって元気を取り戻します。その様に聖霊はつかれきった魂、弱りきった魂を御霊の恵みによって力づけ元気を取り戻してくださるのです。
5月4日礼拝メッセージ「父の約束を待ちなさい」要旨
「父の約束を待ちなさい」(使徒行伝1章1節~5節)
イエス様はかっておっしゃいました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」ヨハネによる福音書14章16節
この方こそ、使徒行伝1章4節で「わたしから聞いていた父の約束」とイエス様が言われた助けぬし聖霊です。これが、旧約の昔から預言者たちに語り継がれてきた聖霊降臨の約束に他なりませんでした。
その約束が「間もなく」(使徒行伝1章5節)成就するから「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」(使徒行伝1章4節)とイエス様は弟子達に命じられたのです。
「待つ」というのは、ある時が来るまで何もせずにじっとしていることです。楽なようですが、時には待つよりも、兎に角何かせかせかとやって働きまわるほうがたやすいこともあります。それが、弟子達のこと時の心境ではなかったでしょうか。復活のイエス様を目撃した彼らとしては、とてもじっとなどしておれない気持ちだったに違いありません。しかし、イエス様はここで、人々のはやる心を抑えて待つようにと命じられました。むしろ、考えもなしに働きまわってはならないとおしゃったのです。
なぜなら、聖霊の助けを受けないで働く人間の力は当てにはならないし、又、決して長続きしないからです。
弟子達のリーダー格であるペテロは、つい少し前、この点で苦い経験をしたばかり弟子た。最後の晩餐の席上で、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マルコによる福音書14章31節)と力をこめて言い張ったペテロでしたが、その舌の根が乾かないうちに、ものの見事にイエス様を裏切ってしまったのです。鶏の鳴く声を耳にした彼は、イエス様のことばを思い出して、「イエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。」(マタイによる福音書26章75節)とあるが、それは彼自身にとっても心外な結末ではなかったでしょうか。
しかし、この失敗を通して、ペテロは人間的に勢いや、元気がいかに頼りないものであるかをイヤと言うほど知らされたのでした。だからこそ、主イエス様は、二度とこのような失敗を繰り返さないために、そして、イエス様から期待された福音宣教の使命を果たすためにも「だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカによる福音書24章49節)と命じられました。だから、彼らはその約束の時を待っていたのです。
私たちも、もし「待つ」ということを学ぶならば、もっと大きな力をもっと強い勇気が与えられるであることを知りましょう。あわただしい忙しい人生を過ごしている私たちは、静かに待つことを学ぶ必要があるのではないでしょうか。




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