4月23日礼拝メッセージ「恐れるなわたしはあなたと共にいる」


 
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4月20日礼拝メッセージ「受けるよりも与えるほうが幸いである」

石原保彦牧師(神木イエスキリスト教会掛川チャペル牧師)

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4月13日礼拝メッセージ「主の復活の証人」

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4月13日礼拝メッセージ「主の復活の証人」要旨

「主の復活の証人」(ルカによる福音書24章44節~53節) 

イエス様のご生涯を詳しく記してきたルカは、最後は、イエス様の昇天という出来事が弟子達に信仰の深まりと同時に非常な喜びとをもたらしたことを伝えています。
 彼らは、(非常な喜び)を抱いてエルサレムに帰りました。この言葉は、2章10節で御使いが語った「恐れることはありません。今、私は、この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」この中の(すばらしい喜び)と同じ言葉です。クリスマスのみ使いの約束が、主イエス様の昇天の時に完全に成就したのです。
 そして、その時以来、喜びは永続し、彼らは主の宮での神賛美に明け暮れたのでした。昇天は、肉体的にはイエス様と弟子との別れの時です。なぜ、弟子達はイエス様の昇天によって(非常な喜び)に満たされたのでしょうか。それは、祝福の姿勢をとられたまま天に昇られるイエス様の姿を見て、弟子達はこれから後、いつまでも自分達を祝福し続けて下さるイエス様の恵みを確信することが出来たからです。
 別れの時の最後の姿は人の心に焼くつくものです。イエス様の地上での最後の姿が祝福を与えてくださるお姿であったところに、弟子達の喜びの源があったのです。復活されたイエス様はすでに完全に自由な栄光のからだをお持ちでしたから、昇天という形ではなく、直ちに天の父なる神様のもとにお帰りになることも可能でした。しかし、イエス様はあえて、目に見える昇天という形で父なる神様のみもとに帰る方法をとられました。それは、これから天にあって永遠に祝福しておられるイエス様に、弟子達が望みを置くことが出来るようにとの主イエス様の配慮でした。
 イエス様が昇天され、天から永遠に弟子達を祝福される・・・・・・ここに弟子達の喜びの源があるのです。私たちも又、今天におられ、私たちを祝福し続けておられるイエス様を仰ぎ望んで参りたいものです。
 親しく交わっていた人の死を通して、私たちも天国を一層身近に感ずるようになります。愛する人が天に召されたことによって、天国がなつかしいものとなり、又、その人たちが天から私たちを見ておられるような感じを持つこともあります。けれども、何よりもまず、天国にはなつかしいイエス様がすでに昇られ、そこから私たちを絶えず見守って下さって、祝福を与え続けておられるのです。ここに天国のなつかしさ、信仰の喜びがあるのです。(非常な喜び)(すばらしい喜び)これは現代の私たちが見失っているものではないでしょうか。現代は小さな喜びを物質的豊かさによって与え続けてくれるかも知れませんが、本当に私たちがそれぞれ生きている、否、生かされていることを喜ぶほどのすばらしい喜びは、主イエス様の昇天を知る者のみ与えられるものです。祝福の姿をとり続けていて下さる天のみ国の主に目を注ぎたいものです。

4月6日礼拝メッセージ「真中に立たれた主」

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4月6日礼拝メッセージ「真中に立たれた主」要旨

「真中に立たれた主」(ルカによる福音書24章33節~43節)

 私たちは親しかった人の死という出来事に直面して、いやおうなしに人が死ぬということの重大さ、厳粛さについて考えさせられます。
 「死」とは何でしょうか? それは人格的な別れです。どんなに大きな声で語りかけても、もう二度と答えが返ってこない。もう、ことばを交わすことが全く出来ない。世界中どこを探しても、もはや死んだ人に会うことは出来ません。その人格にその魂に触れることが出来ない。これが、死です。ですから、とくに親しかった人の死に出会うと私たちは自然に厳粛な気持ちになります。言葉では言い表すことのできない深い悲しみがそこにあります。しかし、救い主イエス・キリストはその私たちの深い悲しみの涙を拭い去ってくださるお方です。亡くなった方と私たちはもう一度出会うことが出来る。死は終わりではないと言う約束をして下さいました。
 わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。(ヨハネによる福音書11章25節)と言われたイエス様が、再び出会うことの出来る天のみ国を造ってくださいました。痛み、悲しみ、苦しみなどどこにもない「天国」を造ってくださって、信じるものに約束される永遠の命を下さいました。その確かな証拠としてイエス様は、復活の初穂として死からよみがえって下さったのです。ルカによる福音書24章36節を見ると、イエス様は「彼らの真ん中に立たれた」と書かれています。イエス様はなぜ真中たたれたのでしょうか。それは、いつもイエス様が彼らと共に折られると言うことがわかるように真中にお立ちになりました。
 又、イエス様は人々がイエス様のことを話している話題の中心になるように真中におたちになられたのです。いつも、イエス様はクリスチャンの交わりの中心にいるいことを好まれます。「 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18章20節)とおっしゃったイエス様は、クリスチャンの交わりの中に自らも入っていかれることを望んでおられるのです。又、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」(マタイによる福音書7章7、8節)とイエス様は言われました。主イエス様との人格的な交わりを私たちが信仰生活の中でひたすら求め続けていく時、復活の主ご自身が死にも打ち勝って生きる復活の命と力を私たちに与えてくださいます。

3月30日(日)礼拝メッセージ「エマオの途上のイエス様」

宮内 賢三牧師

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3月30日(日)礼拝メッセージ「エマオの途上のイエス様」要旨

「エマオの途上のイエス様」(ルカによる福音書24章13節~32節) 

キリストの復活が伝えられた日の午後です。エルサレムから11キロメートルあまり離れたエマオと言う村に向って歩いていく二人の弟子がいました。
 この二人は、ルカによる福音書24章14節~15節によると何事か声高く語り合ったり、論じ合ったりしていました。その一人、クレオパの言葉のよれば(18節~24節)彼らは、主イエス様の十字架の死に失望し落胆して、その復活の知らせが信じられないと言って論じあっていたのです。
 十字架と復活こそ福音の中心なのですが、昔も今も人間の中に疑惑があり躊躇があります。二人の弟子は、イエス様の復活につkて話していました。その時、イエス様ご自身が近づいてこられたのですが、かれらはそれに気がつきませんでした。
 (11節)「歩きながらふたりで・・・・・・暗い顔つきになって立ち止まった」と書いてあります。イエス様の復活について話しながら、そのことが自分にとって希望にもならなければ力にもならなかったのです。自分と関係のない出来事として議論されている時は、復活は何の力にも喜びにもなりませんん。聖書は契約の書であり、すばらしい約束が書いてあります。
 しかし、それを本気で信じていないのがエマオの途上の弟子たちでした。
 だから、いくらすばらしいことを学んでも議論しても自分とは関係がないことでした。だから、(17節)「暗い顔つきになって立ち止まった」のです。聖書の約束は希望のないところに希望を与えてくれるものです。
 しかし、救い主イエス様がよみがえられたという知らせを受けてもそれを疑った弟子達と同じように聖書の約束をそのまま信じ、事実として受けとろうとしないところに私たちの問題があるのではないでしょうか。
 しかし、その旅人たちはみ霊の導きによって、すばらしいキリストの救いという体験を持つことが出来ました。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(ルカによる福音書24章32節) との体験です。
 人間的な議論をやめて、イエス・キリスト御自身の語られるみことばに耳を傾けることを通して、キリストとの出あいを体験することが出来ます。理論や学問で真理を研究するのではなく わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ福音書14章6節)と言われたキリストに傾聴することです。
 第一サムエル記15章22節「見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。」とある通りです。