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3月23日イースター礼拝メッセージ「イエス・キリストの復活」

宮内 賢三牧師

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icon for podpress  イエス・キリストの復活 [27:42m]: Play Now | Play in Popup | Download

3月23日イースター礼拝メッセージ「イエス・キリストの復活」要旨

「イエス・キリストの復活」(ルカによる福音書24章1節~12節) 

あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。(ヨハネによる福音書1章33節)

これこそ、死に勝利されたイエス様の復活のことばでもあります。「自分はもうだめだ。絶望だ。」と考えていらっしゃる方はいないでしょうか。でも、大丈夫です。死に勝利されたイエス・キリストがいらっしゃいます。この方にあっては、「絶望」ということは絶対にありません。
 イエス・キリストはある時、水をぶどう酒にかえる奇跡を行われました。水のように味気ない、空しい日々を送っていらっしゃる方はいないでしょうか。
 もし、いらっしゃれば、イエス・キリストを求めてください。喜びに満ち、すばらしい味わいに満ちた日々があなたのものになるのです。イエス・キリストの復活は、私たちの最大の敵である死をも恐れることの無い、永遠の希望を与えてくれました。
 私の最も大きな恐れは、死に対する恐れ、恐怖でした。しかし、イエス・キリストがしに勝利されたことによって私も死に負かされない命が与えられました。よく、子どもの頃、「死んでも命がありますように。」と唱えたものです。まさに、主イエス・キリストへの信仰によってこれが事実となったのです。
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。(ヨハネによる福音書11章25節) 私たちもいろいろな困難や苦しみ、悲しみの中に立たされて、そこが墓場のように希望のない世界であったとしても、イエス・キリストの故に、必ずその墓が破られる時が来ることを期待いたしましょう。
 イエス・キリストの復活は、私たちの人生に於て直接どのような意味をもつのでしょうか。それは、墓を破られた主イエス様が、常に私たちと共にいて下さるために、私たちがどんなに希望の無い世界に置かれてもそこに閉じ込められたままでいることは絶対にないということです。よみがえりの主の力を私たちも今日いただいて、ここから立ち上がっていく者とならせて頂きたいものです。

3月16日伝道礼拝メッセージ「人生の導き(神のみこころ)」

宮内 賢三牧師

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3月16日伝道礼拝メッセージ「人生の導き(神のみこころ)」要旨

「人生の導き(神のみこころ)」(ルカによる福音書22章42節)

 時々、私たちの願いと神のみこころが異なる時があります。
 このような時、私たちは、神のみこころよりも自分の願いをなしとげようと望んでいるときが多いのです。
 そして、私の願いが聞かれると真の幸福が来るという誤った考え方をする人が多くいます。
 けれども、そうではありません。神の御旨は、神の思いは、私たち人間の願い、私たち人間の思いよりもはるかに高いのです。
 私たち人間は、現在だけを見ます。しかし、神は将来までもご存知です。
 私たち人間は、外側だけを見ます。しかし、神は、その底の底まで見抜いておられるのです。大きな苦難にあう時もあり、逆境で悩むときもあります。時には、大きな悲しみもあり、死の苦しみを味わうときもあります。
 勿論、私たちはこの様なとき、この苦い様を私から取り除けてくださいという祈りをいたします。
けれども、私たちはイエス様がそうなさった様に、どんな場合でも「・・・・しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。(ルカによる福音書22章42節)という祈りを付け加えるべきことを知らなければなしません。なぜなら、神のみこころの行われる時に、最終的な、そして、最大の祝福が私たちに在るからです。
 この様な祈りをするときに、私の心の中に真の平安が与えられるのであり、最終的に神からの大きな祝福が与えられるからであります。
 イエス様がゲッセマネでこの様な祈りをなさった後に、ただ黙って大胆に十字架に向われました。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ人への手紙8章28節) すべてのことを働かせて益としてくださる神様を信頼し、自分の願いよりも、神のみこころが行われるようにと祈る人には、神様からの大きな祝福が与えられるのです。

3月9日(日)礼拝メッセージ「新しい墓」

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icon for podpress  新しい墓 [26:08m]: Play Now | Play in Popup | Download

3月9日(日)礼拝メッセージ「新しい墓」要旨

「新しい墓」(ルカによる福音書23章50節~56節)
 アリマタヤのヨセフや、ニコデモは「サンヘドリヨン」と呼ばれるユダヤの最高議会の議員でした。このサンヘドリヨンの議会を指導していたのはカヤパという大祭司で、このカヤパは自分に賛成してくれる議員ばかりを召集したようで、イエス様を死刑に判決した時には、ニコデモやヨセフはそこにいなかったようなのです。
 この様にイエス様とその弟子たちに対する風当たりの強い時にイエス様の遺体を引き取りたいと願い出たということは、これは非常に勇気を要することでした。
 もし、このアリマタヤのヨセフがこの様な勇気にある行動に出なかったとしたらどうなったでしょうか。当時、処刑された犯罪人の死体や行き倒れの人は、親戚の人か誰かが引き取りにいかない場合は野良犬の餌食になるか、ローマの兵士によって処分され「ヒンノムの谷」と呼ばれるような場所に捨てられたのです。
 ですから、この様な谷を「地獄」にたとえて、イエス様はよくゲヘナと呼ばれました。ですから、もし、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取らなかったら、それはこのような地獄の谷のような所に投げ捨てられていたかも知れません。
 そのイエス様の遺体を納めたお墓は、まだ誰も葬ったことのないアリマタヤのヨセフ所有の新しい墓でした。もし、岩をくり抜いた洞穴のようなこのお墓の中に、既に誰かが葬られていたとすれば、イエス様が復活され墓が空になったとき、イエス様だけが復活されたと言うことを断定することは、難しかったでしょうから。これは実に不思議な神の摂理だったのです。
 ところで、このアリマタヤのヨセフは、これまでは在る意味では卑怯な、他人の目を恐れて、ひそかに隠れたクリスチャンであった様な人物でしたけれども、この時これまでの態度を全く変えて、迫害の危険の中に身を投じたのです。
 何がヨセフをして、この様に勇気にある大胆な行動を取らせたのでしょうか。それは、イエス様の十字架でした。イエス様の十字架がこの様な臆病なヨセフを大胆な人に変えたのです。
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」
コリント人への第一の手紙1章18節

3月2日(日)礼拝メッセージ「十字架の勝利」

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