2月24日(日)礼拝メッセージ「人生最後の救い」要旨
「人生最後の救い」(ルカによる福音書23章39節~43節)
イエス様と一緒に十字架につけらた犯罪人の一人が言いました。「イエス様、あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出して下さい。」
ここでの彼は、たとえ「救ってほしい」と心の中で叫んでいたとしても、その口をついて出てきたのは、ただ控え目に「私を思い出して下さい。」という言葉でした。
それっは、決して押し付け的な強制的なものではありません。全く相手の愛とあわれみの心に依存した心の状態であります。
即ち、その相手がたとえ忘れてしまったとしても仕方のないことであり、文句のいえないもの、忘れられて当然のものでした。しかし、そう言った中で思い出して頂くものならお願いいたします。
それは、私たちの側にとっては、恐らく可能性の少ない、頼りないことのように思います。しかし、神にとっては決してたよりないものでもなければ、影のうすいものでもありませんでした。それどころか、「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、」イザヤ書42章3節とあるように、かえってそうした心の状態にあるものにこそ、目を留めて憐みをかけてくださるのです。
犯罪人の一人は、この時「イエス様、あなたの御国の位にお着きになる時には、」と言っているところから、すでにこのお方が、神の御子キリストであり、救い主であると信じていることが判ります。これは、大変な変化であります。少し前までは、もう一人の男と一緒になって、イエス様を罵っていたのです。その男が、このような心の状態になるとは、全く驚くべきことです。何が彼をその様に変えてしまったのでしょうか。
ただ、一言それは神の働き、御霊の働きであるとしか説明は出来ないのであります。
しかし、それだけでなく、イエス様は、その十字架の上から、次のように語られたのです。「まことにあなたに告げます。あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます。
」これが、この男の信仰に対するイエス様の答えでした。「自らの罪によって十字架に掛り、それは自分のした事の報いを受けているのだから当たり前で」とあきらめてはいるものの、その死の向こうに暗黒が待受けている中で、このイエス様の一言は、男の心に暗やみを打ち破って輝きだす太陽の光以上のものを感じたに違いないと思うのです。男は、まず「あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出して下さい。」と言いました。
それは、彼にとっては淡い、かすかな願いであり、「何時の日にか」と言った遠い先のことであったでしょう。
しかし、イエス様から返ってきた約束の言葉は、「きょう」という一言でした。ここでおしえられますことは、イエス・キリストの救いは、いつの日かではなく、又、遠い将来のことでもなく、常に「きょう」なのです。「今」なのです。今、イエス様は、この瞬間、私たちを救いたいと願っておられるのです。
2月17日(日)伝道礼拝メッセージ「夢が破れたとき成就する約束」要旨
「夢が破れたとき成就する約束」(コリント人への第二の手紙4章16節~5章5節)
少し前に、星雲社という出版社から発売された本ですが、キャロリン・ロスさんという方が書いた『夢が破れたとき約束が成就した』というのが、あります。
冒頭ですすめの言葉を書いた日本アグロー会長のジュディー・ミドルトンさんは、「これは、日本になくてはならない本だと思いました。なぜなら、この本は、人生の巨大テーマを二つ、『なぜ、義人に災いが訪れるのか?』と『本当の祝福とは何か?』というテーマを扱っているからです。
あまりにも多くのクリスチャンが、聖書の神を現世的で、地上的な観点でとらえ、健康的、経済的に問題がなければ祝福されているかのように思っています。そして、病気がちで会ったり、経済的な問題を抱えていたりすると、祝福されていないかのように思います。しかし、それは聖書の神を誤解しているからなのです。」と語っています。
又、この本の序文の中で、オール・ネイションズ国際ディレクターのフロイド・マクラングさんは、「あなたが今読もうとしておられるこの物語は、あなたがこれまでに出会ったすべての物語とは違っているでしょう。そこのは、苦悩と痛み恵みと栄光が溢れています。言葉で言うのは、簡単なことですが、キャロリンとヨハンが歩んだ旅の驚くべき道のりは、言葉で表わし尽くすことが困難です。この物語を読み進める中で・・・・・・あなたは、そこに創造主の手を見るでしょう。創造主は介入はしますが、強制するのでなく、私たちと共に歩み、私たちを強めてくださいます。私たちは、神の道のすべてを理解し尽くすことは出来ません。しかし、忍耐をもって歩み、希望を保ち続けるなら、神の奥義のいくつかを知ることができるでしょう。
ヨハンが経験した苦しみは深いものでした。しかし、彼とキャロリンが見えるところによってではなく、信仰によって歩む歩みに自らを明け渡したとき、二人が発見した恵みは驚くべきものでした。ここには、真理があります。それは、すべての人に通ずる真理です。あなたがこの物語を読み進めていく中で、二人の劇的な歩みに引き込まれるだけでなく、物語の背後に織りなされている真理に目を留めていただきたいと願います。」と語っています。
著者のキャロリン・ロスさんは、1951年アメリカ、シアトルで生まれ、宣教師の両親に連れられ生後9ヶ月で日本に来られました。東京、名古屋、神戸に住み、神戸のカナディアン・アカデミーを卒業後、アメリカに帰国、ヨーロッパにバイブルカレッジ在学中にオランダ人のヨハンさんと知り合い、1973年、神戸で結婚されました。現在は、ご主人と共にオランダ、アムステルダムのYWACのスタッフとしてリーダー訓練の働きをなさっています。本書は、すでに8ヶ国語に翻訳され、各国の人々に真の希望と励ましを与える内容で共感と好評を得ているものです。
2月10日(日)礼拝メッセージ「とりなしの祈り」要旨
「とりなしの祈り」(ルカによる福音書23章32節~38節)
私たち人間の最も耐え難いことの一つは、人々の前で恥をかかされることではないでしょうか。恥を受けたものは、血が騒ぎ、いきり立ち復讐心を心に誓います。
しかし、イエス様は、この耐え難い恥を私たちのために忍んでくださいました。そして、十字架への道を歩まれたのです。イエス様がこの恥を忍ばれなかったら、私たちの救いはありませんでした。ここに、イエス様の深いご愛を知ることが出来るのです。更に、私たちを感動させるのは(34節)そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。という御言葉です。
「イエスは言われた。」ということばは、未完了過去の形です。即ち、過去の反復的行為を表わしています。ですから、その様に直訳すると「イエスは反復し、繰り返して言われた。」となります。
つまり、イエス様は、十字架の上で一回だけ「父よ彼らをお赦し下さい。」と祈られたのではないのです
。十字架の上で、イエス様は何度も何度もこの祈りを捧げられた。と言うのです。実に驚くべき偉大な愛です。実に驚くべき偉大な愛です。
苦しいとき、私たち人間はどうしても自己中心的になります。苦しいときには、他人のことなど考える余裕など私たちには普通ありえません。
しかし、イエス様は苦しい苦しいと自分の苦しみを訴え、同情をお求めにはなりませんでした。しかも、オレはお前達の代わりに十字架についてやっているんだぞ。少しは、同情したらどうか、とは言われなかったのです。反対に自分を十字架につけた者の為に、赦しを祈り続けられました。実に偉大な愛でしう。
しかも、「父よ、彼らをお赦し下さい。」と言う言葉は、ギリシャ語では過去形の命令文で懇願の命令文と言われる特別な用法なのです。
「これこれ、こういうことを、ぜひぜひ、お願いします。切にお願いします。」という時につか区言葉です。イエス様は、御自身の十字架の苦しみのただ中で、自分を十字架につけた者達のために、「父よ、どうか彼らの罪を赦してくださるように、切に、切にお願いします。」と懇願の祈りを捧げておられるのです。
自分を殺そうとしている者のために切に願い、赦しを切に求めておられるのです。何と大きな愛でしょうか。イエス様と一緒に十字架につけられていた一人の罪人が改心して、イエス様を救い主と信じましたが、彼の改心の動機は、きっとイエス様の再三のこの祈りを彼は一番近いところできいていたわけですから、この祈りを聞いて、これは普通の人間ではない誠の救い主でなければ、このような祈りを捧げることができるはずがないと悟ったのではないでしょうか。




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