1月27日(日)礼拝メッセージ「神の声と人の声」要旨

「神の声と人の声」(ルカによる福音書23章13節~25節) 

総督ピラトが過越しの祭の時に、1人の囚人を特別に罪を赦し、釈放する習慣から、バラバと主イエス様を並べました。それは、ユダヤ人たちが、支持していなかったバラバという極悪犯人を並べたら当然イエス様を釈放する方を選ぶに違いないという思いがあったからに相違ありません。にも関わらず、ユダヤ教の指導者達が人々を扇動して、主イエス様ではなくバラバの釈放を求めさせたのは、彼らのねたみと悪意によるものでした。けれども、このように彼等がすることを主が許されたところに更に深い主のみこころがあったことを知らなければなりません。即ち、それはきよい神のひとり子であられた主イエス様が、人間の中で最も酷い悪人であったバラバよりも、更に低い者と見なされることを主はお許しになったということです。
 しかし、ここで考えてみなければならないきおとは、私達自身がバラバほど悪くない者だと自信持って言えるのかどうかということです。そのように思っている限り、私達は自分自身の本当に姿がわかっていないと言うことになります。
 私達も又、バラバと少しも変わりがない者なのだということがわからないと、その私よりも酷い者として主イエス様の釈放を拒否した人達の犯した罪も、他人事としてすませてしまうことになりかねません。
 私達は、きよい神のひとり子を十字架につけ、極悪人バラバを釈放した人たちと少しも変わらない罪人なのだと、いうことを知らなければなりません。もしも、あの時、あそこに私もいたとしたら、彼らの尻馬にのって、イエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ!!」と叫びかねなかった者達なのです。そのことが本当にわかったとき、救いの確信を持つことができるだけでなく、今までのよりも、もっともっと、確かな信仰者となることが出来るのではないでしょうか。私達は、ここに登場する自己保身的なピラトとどこが違うでしょうか。又、ユダヤ教の指導者達に扇動されて心変わりした人々とどこが違うでしょうか。「十字架につけろ、十字架につけろ!!」と人々が叫んでいたとき、はっきり「ノー!!」と言えないで身をちぢこめていた人たちとどこが違うのでしょうか。ねたみ心から主イエス様を十字架につけたユダヤ教指導者達とどこが違うのでしょうか。又、極悪重罪人であるバラバの釈放を求めて主イエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ!!」と狂ったように叫んでいた人たちとどこが違うのでしょうか。
 そのような、私達のために十字架にかかって死んでくださった主イエス様、そして、私達のすべての罪を赦してくださった救い主イエス様に心から感謝しようではありませんか。

1月20日(日)伝道礼拝メッセージ「苦難に打ち勝つ力」要旨

「苦難に打ち勝つ力」(詩篇50篇15節)

カール・サイモントン博士は、がん治療の世界的権威として知られていますが、彼は癌を克服するために八つの具体的方法を提案指定ましう。
1、「癌は、必ず治る」と確信すること。不治の病であるという絶望感が大きなストレスになって免疫力を低下させるからです。
2、朝晩、自分が最高に幸せな状態を心に描くこと。これが、免疫力に大きな良い影響を与えることが、すでに証明されています。免疫力や薬が癌細胞を破壊して、これを体外に排泄している様子をイメージするのです。
3、人を憎まないこと。憎んでいる人がいたら、その人の幸せな姿をイメージして人を憎むのではなく、悪そのものに対する正義の怒りに転化することです。自己中心的な憎しみは、それ自体がストレスになって免疫力を弱めることになるのです。
4、悲しみや絶望感、愚痴や不平、不満を心から徹底的に追い出すこと。代わりに夢と希望を具体的に心に描き出すこと。プラス思考が免疫力を強めるのです。
5、適度に運動すること。適度な運動が筋肉に強い免疫力を持った細胞を作り出すのです。
6、できるだけ大きな目標を具体的に掲げること。目標達成に向け、情熱を燃やすことは末期がんが奇跡的に完治した人に共通しています。
7、できるだけ大きな声を出すこと。大脳生理学によると単調な発声を繰り返すだけでも、ストレスによる抵抗が強められ、精神の安定が保たれて、その結果免疫力が強化されるのです。
8、常に喜び、感謝すること。喜んでいる精神状態が最高の免疫力を発揮することがわかっています。
 今、生かされていることに感謝し、自分の人生に特別な使命が与えられていることに感動すること。
 これらを実践すれば、すべての病を克服することが出来るとサイモントン博士は語っています。聖書には「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節 
とあります。私達が生きていることを(生かされているいこと)をいつも喜び、感謝して生活すれば、どんな問題も解決することが出来るのです。

1月13日(日)礼拝メッセージ「ユダヤ人の王」要旨

「ユダヤ人の王」(ルカによる福音書23章1節~12節) 

 それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。 (ルカによる福音書23章9節)
 私達が他の誰かとお話をしている途中で、相手が突然黙ってしまったとき、しばしば、私達はその沈黙の意味を勘違いして此方の思い込みで、相手を勝手に裁いてしまうことがあります。
 「祈り」においても、そのようなことがあるのではないでしょうか。私達がいくら祈っても、答えがないように思われるとき、主イエス様は、それに答えることがおできにならないのだと思い込んだり、答えてくださらないのだと、自分勝手に決め込んでしまうことがあります。
 しかし、イエス様が何もおっしゃらないのは、それに答えることができなかったり、答えて下さらないのではありません。そこに大切なメッセージがあることを私達は、知らなければなりません。答えられないこと自体がメッセージなのです。私達の思いや願いが必ずしも正しくないことを示すシグナルかも知れません。主は、沈黙されることによって、私達はそこで少し立ち止まってしっかり考えるようにおっしゃっているのです。私達の願い、求めが必ずしも間違っているわけではなくても、今、それが私達の願った通りになることが、主のみこころであるとは限らないからです。
 又、どんなに、私達が主のみこころを求め、そのみこころに沿って求めていることでも、主は更にすばらしいみこころを持っておられ、それに、私達が至るように沈黙されることがあるのです。 現代は、とにかく沈黙の意味がわからなくなってしまった時代ともいえます。大きなおしゃべり、ボリュームを目いっぱいあげて音楽を聴く時代です。どこへ行っても騒音だらけの中にわたしたちは、生きています。音が聞こえてこないことへの不安もあります。ですから、つい沈黙していることが出来ない習慣が身についているのです。そういうわけで、自分が沈黙することだけでなく、神様が沈黙しておられるように思えることに対しても苛立ちがあります。恐らくこの時のヘロデもそうであっただろうと思われます。イエス様がどんな質問に対しても答えられなかったことに苛立ちを感じたのでしょう。ですから、彼は、イエス様をなぶりものにすることによって、自分の苛立ちを解消しようとしたのです。
 しかし、彼は、イエス様が何も答えられなかった時、その沈黙の意味を正しく知るべきでした。知ろうとしなかった彼は、せっかく救い主イエス様に出会う機会を与えられながら、結局は自分自身を永遠の滅びへと向わせることになったのです。
 「ユダヤ人の王」どころか、私達全人類の救い主としてこられた王の王、主の主、イエス様をしっかりと心にお迎えしましょう。そうすれば、私達の人生は必ずかわります。

動画が再生できないことについて

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尚、動画がご覧になれなかった方のために、この度のクリスマスの賛美をウィンドウズメディア方式とFlvの形式で暫くの間提供させていただきます。

2008年1月6日(日)新年礼拝メッセージ「将来の希望のある人生」要旨

「将来の希望のある人生」(エレミヤ書29章11節~13節)
 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。エレミヤ書29章11節
 父なる神様は、私達が満ち足りた人生を送ることを望んでおられます。ですから、私達は、敗北と失望を引きずりながら、人生を歩む必要はありません。
 たとえ、今、どんなにつらい苦しい、悲しいものであっても私達には、それぞれすばらしい将来が神様によって用意されています。ですから、砕かれた夢も、奪われた喜びも必ずすべてが元に戻ります。ただ、元に戻るどころか、私達の思いを越え、理解をはるかに超えたすばらしい未来を神様は計画してくださいます。父なる神様は、私達が満ち足りた人生を送ることを望んでおられるのです。
 神様が望んでおられるのは、私達がこの新年礼拝を終わって暫くの間は嬉しい喜んだ気持ちで過ごせるというだけではありません。父なる神様は、私達の人生をずっとずっと喜びと幸せで満たしたいと願っておられるのです。生きるためだけ働くのではなく、それぞれの仕事にやりがいを見出すことを望んでおられます。結婚生活をただ漫然と送るのではなく、強い絆をもう一度復活させることを望んでおられます。
 神様は、私達のために圧倒的な勝利、勝ち得て余りある勝利を用意しておられるというのです。ですから、私達の視野をもっと広げて、神様がご計画なさっている勝利に目をむけていきましょう。
恵みがもたらされることを確信しどんな苦難にも決してくじけない決意を確かなものとさせていただきましょう。私達は、平々凡々とした人生に甘んじるように造られ、生かされている者ではないのです。
 本当の恵みがもたらされるかどうかを決めるのは、私たち自身の信じる心の強さです。信じるものには、神様ご自身が不可能を可能とする力を私達に約束して下さっています。ですから、私達は、自分の狭い考えで神様からの恵みを制限してしまわないように、心がけましょう。
  求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。マタイによる福音書7章7節~8節
 私達は、思い切ってより大きく、より良いものをこれから求めてまいりましょう。私達が未来を信じれば、私達が望みえる最高のものを得ることが出来ます。今日から、胸を躍らせて、一日一日を全能の父なる神様に期待して生きることを決意していきましょう。そうすれば、私達が思いもしなかったようなすばらしい未来が、私達の前に開けて来るのです。 

12月30日(日)年末礼拝メッセージ「感謝する人生」要旨

「感謝する人生」(コロサイ人への手紙3章15節~17節) 

 アフリカの聖者として有名なアルバート・シュバイツアー博士は、少年時代を思い出しながら次のように語っています。
 「私が成長してきた時を振り返ってみると、大変多くの人たちが私達を助けてくれたことを思い出します。ところが、私は、その人たちに十分な感謝の気持ちを表わしてきませんでした。私が、彼らにお世話になったことを感謝している旨を伝える前に、彼らの大部分がこの世を去ってしまったことを考えると、私の心は痛みます。感謝することをためらったり保留にしたりするものではありません。その時、その時に、感謝の気持ちを表わすことは、とても大切なことです。」
 天の父なる神様も同じです。私達が心から感謝の気持ちを表現するとき、喜んでくださるのです。
 マルコによる福音書14章に、イエス様を喜ばせた1人の女性の話が記されています。その女性はおそらく、自分の結婚の時に備えて長い間かかって、蓄えていた高価な香油を、愛と恵みに感謝してイエス様にささげたのでした。本当の感謝は、自分が最も大切にしているものをささげることの出来る心です。イエス様に香油をささげた女性のことを「(この人は)私のために立派なことをしてくれたのですが・・・世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と語られました。
 大飢饉のために飢えて苦しむツァレファテのやもめに、エリヤを神様が遣わされ祝福されたときも、最後に残ったわずかな粉と油を使ってパンを焼き、エリヤに食べさせるように命じられました。そして、彼女がその言葉通り最後の粉で焼いたパンを差し出したとき、神様はこれを感謝のささげ物として受け取られ、彼女を祝福し、イスラエルに再び雨が降るまで彼らを豊かに食べさせられました。
 父なる神様は、このようにすべてのものを喜んで、主にささげた人の感謝を神様も喜んで受け取ってくださり、彼等が直面している絶望的な状況からも救い出され、祝福を与え、不思議なわざをなさる方です。
 ですから私達は、父なる神様のみ前で力と心の限りを尽くして真実な感謝をささげたいものです。
 そして、どんな環境の中においても、父なる神様ご自身を喜び、楽しむことが出来る信仰が与えられ、神様が喜んでくださる感謝の香りを放つものとならせていただきたもいものです。