クリスマス礼拝メッセージ「すばらしい喜び」(ルカによる福音書2章1~11節)
犬飼道子著『人間の大地』の中に出てくる話ですが、7万人もの人々が収容されていた難民収容所での出来事です。
そこに一人の子どもがいました。一人ぼっちです。両親は死んだのか、殺されたのか、或いははぐれたのか判りません。兄弟姉妹がいたのか、死んだのかそれもわかりません。
たった一人ぼっちで、一言も口にしないで、ただ空を見つめたままの子どもでした。衰弱しきった体は、熱帯性の病原菌には絶好の獲物でしたから、その子は、病気をいくつも持っていました。
国際赤十字の医師団は、打てるだけの手を打ち、ついにさじを投げてしまいました。だんだん衰弱して死んでいく可能性しかこの子には残っていませんでした。かわいそうに、もうその子は、薬も流動食も何も受け付けなかったのです。幼心に、もうこれ以上生きたところでなにになるという絶望的な気持ちになっていたのかも知れません。
ピーターと呼ばれるアメリカのボランティアの青年がその子のテントで働いていました。お医者さんがさじをなげたその時から、ピーターはしっかり子どもを抱きしめ、そしてそこに座り込みました。ボランティアは、夕方5時30分にそのキャンプを出る規則になっていましたが、特別な許可を得て、ピーターはその子どもを夜も、昼も抱き続けました。子どもの頬をなで、接吻し、耳元で繰り返し繰り返し、子守唄を歌い、二日二晩、お手洗いに行くのも惜しんで、全身蚊にさされながらも、ずっとその子どもを抱いて励まし続けました。そして、三日目にやっと反応が出ました。ピーターの目をじっと見て、その子がニコッと笑ったのです。自分を愛してくれる人がいた。自分を大事に思ってくれる人がいた!! 自分は誰にとっても、どうでもいい存在ではなかった!!
このことがわかった時、無表情の石のように閉ざされていたその子の顔と心は、開いたのです。ピーターは、泣きました。喜びと感動のあまりに泣きながら、勇気づけられて、食べ物と薬とを子どもの口に持っていきました。子供は、食べ始めました。絶望が希望にとって変わったのです。薬を飲み、そして、子どもは生き始めたのです。「私にとって、生涯忘れることのできない出来事でした。」と犬飼道子さんはその本の中で書いています。
クリスマスは、神が私達に下さった最高の賜り物、それは私達の過去がどうであろうと、今がどんな状況であろうと、もう一度私達と神様との交わりが回復するようにと、その橋渡しをするために、イエス・キリストがこの世に来てくださったということなのです。人となられた神であるイエス・キリストは、私達のただ中に来てくださり、生まれながらの悲しみ、悩み、あらゆる問題の根源である罪を自ら、身がわりとなって受け止めて死んでくださっただけでなく、墓に葬られ、三日目によみがえり、私達に永遠の命を約束してくださいました。そして、おっしゃっています。あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。(イザヤ書43章4節)主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。(ヘブル人への手紙13章5節)
伝道礼拝メッセージ「良い悲しみ」(コリント人への第二の手紙1章3節~6節)
私達は、日常生活の大部分を、自分の人生を豊かで有意義なものにしてくれるものを手に入れるために、一生懸命に働いて過ごしています。それが家族である夫や妻、そして子どもであり、親しい友人、仕事、或いは私達にとって必要なもの、大切なものお金であったりします。
けれども、残念ながら自分がとても大切にしてきたそれらの人や物を突然失ってしまうことがあります。そんな時、私達の心になにが起るのでしょうか。
私達にとって大切なものを失って嘆き悲しむのはごく自然なことです。時には失ったものがあまりにも大きくて、人生の土台が揺らいでしまう程のショックを受け、深い絶望の淵に投げ込まれてしまうこともあります。
私達は、(悲しみ)の本質について、ほとんど知らないために思いがけない突然の悲しみに襲われるとパニックを起し、打ちひしがれてしまうので卯s。
地引網出版プレンジャー・E・ウェストバーグ著『すばらしい悲しみ』(原題Good grief 良い悲しみ)この本は、1962年に出版されて以来、全世界で200万部以上が売れています。
著者は、病院のチャプレンを長年勤めてきた方で、その経験の中から、生れたのが本書です。本の前書きの中で、著者は、発刊35周年記念版に寄せて次のように語っています。「多くの方々がこの小さい本を悲しみの体験を乗り越える手助けとして用いてくださったことに深く感謝をしています。わたしは、この35年間、人生で直面する様々な喪失体験が単に私達を傷つけるだけではなく、少なくとも、この人生を変えてくれるものであることを学んできました。苦しみは、良いことではありませんが、打ちのめされてしまう必要もありません。最後には苦しみが癒され、前進することが出来るのです。
では、この本を読むと、何がどうかわるのでしょうか。
①以前より、いくらか心が成熟して、悲しみの体験を抜け出すことが出来る。
②絶望の淵を体験し、それがどんなものかを知ったことで、より深みのある人間になれる。
③険しい山道を登ることで、心の筋肉を使うことを覚えより強くなれる。
④悲しみの暗い谷間を通り抜けることで、人間をより深く理解し、他の人をより効果的に助けられるようになる。以上がこの本を『すばらしい悲しみ』(Good grief)と名づけた理由です。」
『神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。』(コリント人への第二の手紙1章4節)
当サイトをご視聴いただくには、Adobeシステムズのフラッシュプレーヤーがインストールされていることが必要です。
出来れば、バージョン8.0以上がおすすめです。
もし、当サイトをご視聴できない方がおられましたら、下記のサイトでフラッシュプレーヤーがインストールされているかどうか確認することが出来ます。
Adobe Flash Player のバージョンテスト
もし、フラッシュプレーヤーをインストールしたいのであれば、無償で簡単にインストールすることが出来ます。
ウィンドウズをご利用の方は、下記サイトへアクセスしてください。尚、グーグルツールバーも一緒にインストールされる設定になっておりますので、グーグルツールバーが不必要な方は、チェックをはずしてインストールしてください。
Adobe Flash Player ダウンロードセンター
Windows
また、フラッシュプレーヤーをインストールすることに抵抗がある方は、play now,play in popup,は、利用できませんが、downloadを利用していただくと、それぞれのファイルに関連付けされたプレーヤーが起動してご覧いただける場合もあります。
また、iTunesをインストールされている方は、そちらの方でもご視聴できます。
iTunes サイト ニューホープチャーチ掛川メッセージ集
礼拝メッセージ「神の子キリスト」(ルカによる福音書22章63節~71節)
神様のひとり子イエス・キリスト、一点の罪もしみもないお方、神様ご自身である方がなぜ人に裁かれなければならなかったのでしょうか? イエス様は捕らえられなくても良いのに、捕らえられ裁かれなくても良いのに、裁かれたのです。
それは、私達すべての人の罪を一身に引き受けて、これに代わって死んでくださるためでした。ですから、人々が自分達の罪を発揮して神様のひとり子イエス様をありとあらゆる暴力と辱めをもって扱う、そのすべてをイエス様の心の中には、いささかの恨みも憎しみも対立もありませんでした。そのまま一切を全身全霊で受け止めていかれたのです。
やがて、ルカによる福音書23章34節で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、人々が無知のゆえに、自分達がなにをしているかわからないでやっているのだから、どうか赦してやって下さいと、父なる神様に祈っておられます。
ご自分を罵り、暴力と辱めの限りをつくし、遂に十字架にかけた者たちのために、その苦しい十字架の上から、身をもって神様にとりなして下さっています。これが十字架にかかられたイエス様の心であります。
即ち、イエス様のこころには、対立というものが一点もありませんでした。すべてを父なる神様の前に明け渡し、委ねておられたのです。これは、私達人間の中には見ることのできない姿です。人と人との対立の原因は、それぞれの心の中に自分というものが生きているからです。無私、自分がなくなる、そこでこそ対立はなくなります。自分(自我)がある限り必ず対立があります。また、自分をかばうこころが強く働きます。それが人と人との間に絶えず事を起し荒立てていくのです。私達があらゆる人間関係の中で、家族であっても、或いは、職場にあり、学校にあっても、お互いがいつも苦しむ出来事は、こういう人と人とのこころの対立に苦しむのです。そのため心も体も疲れ果てるのです。
仕事自体で疲れると言うよりも、又、勉強で疲れるというよりも、そういった人と人との対立によって疲れる。そして、仕事もろくに出来ない。勉強も出来ない。或いは、家庭生活がいつも楽しくない。むしろ憂鬱になっていくのです。
心の対立があるというのは、強い自我が自分の中でがんばっていると言うことです。それが他を受け入れようとしない。自分に合うこと以外は受け入れないのです。そして、絶えず自分をかばおうとします。だから、そこで傷ついたり、苦しんだり、互いにもみくちゃになっていくのです。これが罪人である私達の現実です。どこ迄も自分中心に生きようとする罪人の姿です。この罪人である私達の心の中から対立という罪を取り除くために、イエス様は十字架にかかってくださったのです。
「振り向いて見つめられた主」(ルカによる福音書22章54節~62節)
主イエス・キリストは、その愛する弟子たちからも見捨てられ否まれることによって、つまり誰にも理解されず孤独な死を経験されることによって、私達がじぶんでも気づいていない罪をも背負ってくださいました。主イエス様は、私達が自分で知っているだけの罪を背負われたのではありません。
私達の知らない、気がつかずに犯した罪までも、すべてを背負って下さった救い主なのです。
私達が、愚かにも、自分自身を知っていると思っている思い上がった傲慢の罪を、主は、自ら背負ってくださる救い主なのです。
ユダが最後の晩餐の席から立って出て行った時は、「すでに夜であった。」(ヨハネ福音書13章30節)と聖書は記しています。けれども、ペテロの場合、それはもう夜明け前の夜でした。鶏が鳴いているからです。この自然界の状況は、ユダとペテロの二人の霊的状況を何か暗示しているようです。
ユダの場合、これは真っ暗闇の夜でした。しかし、ペテロの場合これは、既に夜明けが近づいてきている夜でした。しかし、ペテロには、彼が自分を知っている以上に、彼を知り抜いており、贖ってくださる主イエス様の恵みがありました。主を否む恐ろしい罪を犯したペテロは、泣きじゃくりながらも、なお自分の真の姿にも、まだ気づいていなかったかも知れません。
又、自分のために差し出されようとして準備されている光のあることにも気づいていなかったかも知れません。
しかし、既に主のみ手は、彼に先んじていたのです。ですから、私達は、主イエス・キリストがすべてのことを知っていてくださると言うことに、一切の望みを託すことが出来るのです。
自分の決心や、自分の誓いや、自分の努力というものがいかに空しく、もろいものであるかということを知って、主イエス・キリストのとりなしと贖いの真実さに、ずべての望みを託すことが出来るのです。私達1人1人の上に、常に恵みの目を注いで下さる主イエス・キリストを覚えましょう。
私たちを支え、私達がたとえ信仰のつまづきを持ったとしても、それが終わりではない、絶望ではないのです。必ず、私達を堕落の坂道から転げ落ちてしまわないように、祈ってくださる愛に満ちた主イエス様のみ顔を仰ぐことを忘れないようにしたいものです。