11月25日(日)礼拝メッセージ「暗やみの力」要旨

「暗やみの力」(ルカによる福音書22章47節~53節) 

ウエストミンスター小教理問答によれば、問い37で「信者は死の時キリストからどんな祝福を受けますか。」とあり、答え「信者の霊魂は、死の時全く清くされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。」と答えています。今は、暗やみの力(サタンの力)に支配されますが、救い主イエス様を信ずる者の未来は、そうではありません。死も又、信ずる者にとっては、祝福なのだと聖書は教えているのです。死は地獄への門出ではなく、神の国への門出だと言うのです。
 イエス様を信ずる者は、地上の最後の息を引き取った時、すぐに天国に目覚めるのです。そこでは、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」黙示録21章3節~4節
 天国のことについて、私達はあまり多くのことを知ることは出来ません。聖書でも、あまり詳しくは知らされていません。
 しかし、一つのことは、はっきり教えられています。それは、「いつも主が共にいてくださる」と言うことです。これこそ、最も大きな慰めです。 
 レオン・モリスという聖書学者は言いました。「私達は、知りたいことが沢山ある。しかし、聖書が『いつも主が共にいて下さる。』ことを約束するならば、他のすべてのことはもはや重要ではない。これに付け加えるべきものは何もない。」
 全くその通りです。私を愛し、私のために十字架で生命をささげるまで愛して下さった主と共にいるのですが、外のことはたとえわからなくても良いのです。
 地上の信仰の戦いに疲れた体に主は、ご苦労であった。復活の時まで疲れた体を休めなさい。と言ってくださるのです。そこでは、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもないのです。
 このように、最後そそして、最大の敵、「死」をも恵みに変えて下さるイエス様の十字架の死に感謝したいと思います。そして、救われた喜び、恐れから自由にされ、解放された喜びをもって信仰の生活をおくられていただきたいものです。
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11月18日(日)伝道礼拝メッセージ「賛美と感謝」要旨

伝道礼拝メッセージ「賛美と感謝」(エペソ人への手紙5章19節~20節) 

真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。使徒行伝16章25節
 これは、パウロとその一行が、ピリピの町で救い主イエス様の福音を宣べ伝えていた時のことです。そこで、彼らは捕らえられて投獄され、ムチ打ちの刑に処せられました。けれども、パウロとシラスは獄中で祈りと賛美をささげていたのです。神様の栄光の導きに従って、はるばる2000キロも離れた地に旅をして伝道して来た結果がこの有様かと不平不満を言いたいところですが、彼らはいつでも、何処ででも神様に祈り、賛美していたのです。
 賛美とは、人生の空しさ、はかなさを嘆き、悲しむ歌では勿論ありません。それどころか、どんな状況にあっても、神様が共にいてくださることを喜び、感謝する信仰の歌です。この時、思いもかけない地震の奇跡が起り、牢の扉が開いたのですが、二人の賛美の歌に聞き入っていた囚人は誰一人として逃げようとはしませんでした。ここに神様に向ってささげる賛美の力を見ることができます。
 牢獄の中には、自分さえ良ければという自己中心のもの、短い人生をはかなみ快楽におぼれ、人を傷つけ殺人の罪を犯した犯人も多くいたのです。けれども、そんな罪人達が、投獄されムチ打たれても神様にささげているパウロとシラスの賛美の歌に心を打たれ、次第に感化されていったのです。
 まさに「賛美を住まいとしておられる」全能の神様が働かれたのです。後にパウロはローマでも投獄されますが、そこからピリピの人々に宛てた手紙の中で語っています。 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。ピリピ人への手紙4章4節
 この手紙は「喜びの手紙」とも呼ばれ、死刑の時が迫る獄中においてもなお神様を喜び賛美するパウロの姿が見えてきます。どんな状況においても、いつでも、どこでも変わらずに賛美をささげるパウロの信仰に賛美の原点を見ることが出来ます。彼の心の内に湧き出た喜びの源泉が先の手紙を受け取ったピリピ教会の人々に受け継がれ、全世界の教会のクリスチャン達に受け継がれていったのです。

11月11日(日)礼拝メッセージ「ゲッセマネの祈り」要旨

「ゲッセマネの祈り」(ルカによる福音書22章39節~46節) 

私達が神様のみこころをしっているということと、それに従うと言うことは別のことです。神様のみこころがわかっていても、それに従うということは、それほど簡単なことではありません。
 主イエス様は、ご自身がこの世に来られた目的、ご自分の使命を良く知っておられました。ですから、今までも弟子達に繰り返し、繰り返し、そのことを語ってこられました。けれども、いざ、その時になると、その出来事のあまりにも厳しい現実の前で、少したじろぎを覚えられたようです。ですから、イエス様は真剣な祈りの中で父なる神様の御心に従われたのです。
 私達も同様です。神様のみこころは、聖書の中にはっきりと書き示されています。ですから、聖書をよく読んでさえいれば、何が神様のみこころであるかは渡っているはずです。けれども、それに従うと言うことは、それほど簡単なことではありません。
 聖書のかなには、しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。マタイによる福音書5章44節と教えられています。それは、神様の御心です。
けれども、私達を愛し、私達に好意を持ってくれている人のために祈ることは出来ても、自分を嫌って好意持ってくれない人、かえって敵意を持っている人や、自分を迫害する人を愛したり、祝福を祈ることば、そんなに簡単なことではありません。
 しかし、それは決して不可能はことではありません。私達の生まれながらの性質や、自分の力だけでやろうとしても、それは、決してできることではないでしょう。それでも、祈り中で、神様の御心にお従いしようとするとき、それをすることが出来るのです。神様がそのようにさせて下さるからです。真剣な祈りにおいて、私達は変えられ、神様から大きな力をあたえられて、人間的には不可能と思えることも、それができるようになるのです。
 イエス様のこのゲッセマネの祈りの後、ユダに先導された一隊がやってきて、イエス様は捕らえられてしまわれるのですが、この真剣な父なる神様に対する祈りの中で、イエス様は恐れを知らぬ人にと変えられて行枯れたのです。
 私達も、父なる神様に対する真剣な祈りの中で、主ご自身に変えられて行く者となりたいものです。神様にとって不可能なことは何もないからです。

11月4日(日)礼拝メッセージ「神のみを信頼する信仰」要旨

「神のみを信頼する信仰」(ルカによる福音書意22章35節~38節)

 ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害していた頃、多くのユダヤ人がアウシュヴィツの収容所で殺されました。
 ある時、1人の逃亡者があり、見せしめのために20人を餓死による死刑に処することになりました。そして、収容所の所長がその20人の死刑にする人選していました。
 やがて、選ばれた20人は、間もなく死ななければならないことになりました。その中の1人が、「自分には妻子がある。彼らに会うまでは、死にたくない。」と叫んだとき、残された囚人達の中から、1人の男性が進み出て言いました。「私がその人の身代わりとして死にます!!」
 それはマキシミリアン・コルベ神父でした。こうして、コルベ神父はその選ばれた死刑囚の1人と自分のその立場を代えて死んでいきました。
 立場を変えるということは、口では簡単に言えても、その実そんなに簡単なことではありません。全く罪のないお方であるイエス・キリストが私達罪人の立場に立って、私達の代わりに十字架上で死んでくださいました。これほど驚くべきことはありません。しかし、これほどの大きな恵み、祝福はないのです。
 イエス・キリストが私の身代わりに死んでくださったということを信じる人は、救っていただくことができ、全く新しい人生を歩むことが出来るようになります。これほどすばらしい祝福はありません。イエス様の弟子は、この救いの恵みと祝福にあずかった人々です。
 イエス様が十字架で死んでくださってからは、もう弟子達は、人々の好意に頼って生きていく必要はなくなりました。この時以来、彼らは、神様だけを信頼する信仰をもって自立して言ったのです。特にパウロの伝道を見ると、そのことがよくわかります。彼らは、その伝道によって救われた人々から自発的な献げものによって、主の働きを進めて行く事はありましたが、ほとんどは、天幕造り(テント造り)をしながら、自立して伝道しました。
 私達ニューホープチャーチも、15年前に神様だけを信頼する信仰をもって、自主独立の伝道を始めさせていただきました。
 自主独立の伝道こそ、誰の顔色も伺う必要なく、極めて自由です。良心の自由を失うと心ならずも神さまをかなしませるようなことをすることにならないとお限りません。心ならずも妥協して、罪を犯してしまうことにもなりかねません。
 神様だけを信頼する信仰をもって自立していくところに、本当に解放された自由な人生が導かれます。そのような人生をご一緒に歩ませて頂きたいものです。