Footprints
説教の中でも紹介されている詩です。
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「やり直しのできる人生」(ルカによる福音書22章31節~34節)
「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカによる福音書22章32節
人生の試練を私達は避けて通ることは出来ません。けれども、もし、大きな困難が突然私達に襲ってきたら、私達は、どのように耐えてたら良いのかわかりません。
しかし、そのようなときにも、主イエス様が必ず助けの手を伸ばして下さることを信じましょう。小さな弱い私共と共に歩んでくださる。また、私達が倒れて起き上がれないようなときに、私達を背負って歩んでくださる主を信じましょう。私達を強めてくださり、最後まで耐え忍ばせてくださる主を信じようではありませんか。
「神は愛なり。」との聖書のみことばもあるように、神はその深いご愛の故に、私達が耐えられないような限度を越えた試練に、あわせるようなことは決してなさいません。「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」コリント人への第一の手紙10章15節 そして、そのような試練の中で、神様は私達を慰め、新しくして下さるのです。造り変えてくださるのです。その様な苦しみのただ中で、天国の現実を味わうことが出来るのです。
試練や苦しみそのものが神様の最終的なご計画ではありません。神様は、しばらくの苦しみの後に、以前にもまさる愛とあわれみとを示してくださるのです。イエス様ご自身、父なる神を信頼し、この後、ゲッセマネから十字架に至る恐怖と戦慄の時のはじめから終わりまで父なる神が支えて下さったことを体験なさったのです。
そして、主はおっしゃいました。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネによる福音書16章33節 弟子達を聖霊によって、決定的にまた力強く造り変えてくださった主は昨日も今日も永遠にかわることのないお方です。
主イエス様は、臆病で弱い、つまづいてばかりいるような私達を、イエス様に忠実な弟子、死に至るまで忠実でいのちの冠を受ける者と変えてくださるのです。
「人の考えに勝る平安」(ピリピ人への手紙4章4節~7節)
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。ピリピ人への手紙4章6節7節
天地宇宙万物を造り、私達に命を与え、守り支えて下さっている全能の父なる神様に、私達の必要のすべてをお委ねしようと決断する時、神様は私達を全ての思い煩いから解放してくださいます。そればかりでなく(人の全ての考えに勝る神の平安)を約束しておられます。
自分には、悩むだけの無理もない理由があると思うかもしれません。けれども、そんな時はこの手紙がどんな時に書かれたものであるかを覚えておきましょう。
これを書いたのは、パウロと言う人物で、彼はこの時ローマの牢獄の中につながれていたのです。彼は、自分の命が危険にさらされているのを承知の上で、どんな状況にあっても、満足することをどのようにして学んだかをピリピにいる教会の人たちに向けて書いていたのです。彼は、わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(ピリピ人への手紙4章13節)とも書いています。
この手紙の中で、パウロは思い煩いや心配を克服するために少なくとも三つの鍵を提供しています。
第一の鍵は、心配しないこと。(何も思い煩わないこと)を選ぶことです。
第二の鍵は、すべてについて祈ることです。どんなことでも、全能の父なる神様に相談してみましょう。自分でなにかしようとしてはいけません。私達の今持っている問題を必ず何とかしてくださる方、必ず解決することがおできになる力ある方にお願いしましょう。詩篇作者も次のように悟っています。あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。(詩篇55章22節)
第三の鍵は、感謝を持って祈ることです。感謝の気持ちほど人のこころを大きくかえるものはありません。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(マルコによる福音書11章24節)と約束されていますから、祈り求めたことはすでに受けたと信じて感謝しましょう。
「一番偉い人」ルカによる福音書22章24節~30節
「誰でも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は、高くされるからです。」とのみことばが主イエス・キリストにとって真実であった様に、私達にも又真実であることがわかります。
私達のもっている人間関係のすべての部分でこの事を実践させていただく時、やがて私達は、紙の栄光と祝福の中を歩むことになるのです。(ピリピ人への手紙2章6節~7節)キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。(コリント人への第二の手紙4章5節)わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。主の弟子ヤコブもヨハネもそのようにして人のしもべとなり、人に仕えていくことの大切さ、祝福を学んでいきました。そして、事実ヤコブは、キリストのために、最初の殉教の死をとげる使徒にまで高められたのです。(使徒行伝12章1~2節) 「雷の子」というあだ名が知られた激しい気性のヨハネは、(ヨハネ3章17節)「愛の使徒」と呼ばれる程の柔和な性質に変えられ、主に仕えて、その長い生涯を送りヨハネによる福音書、ヨハネ書簡、黙示録を後世に遺す栄光にあずかりました。
この世におけるすぐれた地位や、名声、人の上に立って命令をすること、それらは丁度、夏の夜空に輝く花火のようなものです。華やかで、美しく、人々の注目をあべますが、ほんのつかの間に過ぎず、まもなく消えていきます。
現在、この悩み多い、混乱した時代にあえぎながら生きている様々の煩いに心を奪われている私たちも、静かにしずまって、今も変わらず上から語りかけてくださる主の御声に、耳を傾けるべきではないでしょうか。「真になり、耐え忍んで主と共に苦しみ、杯を飲むものとなることである。」と呼びかけておられる主のみことばを今も心に受けるべきではないでしょうか。そして、私達が、イエスに仕える者となり、人に仕えるしもべとなって、そのために苦しみを耐えれば耐えるほど、いつの間にか主イエス・キリストの近い座につく栄光と喜びと祝福とを神様から与えられていることに気づくのではないでしょうか。
「新しい契約」ルカによる福音書22章7節~23節
イエス様が十字架にかけられる前日、弟子達と共に最後の過越の食事をされました。これがいわゆる「最後の晩餐」です。
このときから、聖餐式が代々の教会によってずっと受け継がれ、守られてきたのです。しかし、本当のところ、聖餐式は、この世の終わりに於て、私達が招かれている天の御国での晩餐を指し示しているものです。ですから、聖餐を受ける私達は、主イエス・キリストによって贖われた幸いを覚えながら、主の再臨と終末を待望し、主の御前に清い思いをもってのぞまなければなりません。
イエス様は言われました。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない(ヨハネによる福音書6章35節)わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である(ヨハネによる福音書6章51節)
イエス・キリストは、今も尚、みわざをなしておられる「王の王」「主の主」です。又、イエス・キリストは「輝く明けの明星である。」(ヨハネによる黙示録22章16節)と言われました。私達の人生の永遠の希望はただイエス様だけであります。このようなお方が、この世に他に誰かおられるでしょうか。過去、現在、未来、天上天下において、この方以外には、誰もいないのです。真の神であり、真の人である。私達の主イエス・キリストただお1人だけです。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである(使徒行伝4章12節)
恐ろしい罪の重荷を引き受け、平安な心を与える方はイエス様お1人です。険しい人生航路でただ1人重荷を背負って耐えられないで倒れるような時も、その様な私をもう一度立ち返らせ救ってくださる方は、ただイエス様お1人であります。恐ろしい誘惑が迫り、試練にあってもそれに打ち勝つようにし、正しい道に歩むようにしてくださる方はイエス様だけです。
人生の荒波の中で、愛する人を亡くし悲しみの涙を流すとき、私達の涙を拭い去り、慰めと望みを与えてくださるのも、ただイエス様だけです。イエス・キリストだけが、私達を罪の中から救ってくださり、弱い私達に罪に打ち勝つ力を与え、喜びを与え、平安を与えてくださいます。又、生きる力を与えてくださいます。永遠の命に生きるようにして下さいます。
ですから、私達は常に主を讃美する主の御名をほめたたえるのです。パウロは言いました。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである(ガラテヤ書2章20節)
「イスカリオテのユダ」(ルカによる福音書22章1節~6節)
悪魔が私達の心の中に入るのは、悪魔に入る隙を与えるからです。又、悪魔の好む餌があると、悪魔は喜んで入ってきます。イスカリオテのユダが、お金に執着していたということも餌の一つです。もし、彼がイエス様に疑いを抱き、失望したとするなら、その疑いも失望も悪魔の好む餌なのです。その他、恨みや、憎しみもそうですが、要するに罪は、すべて悪魔の大好物です。私達の心の中に罪があれば、悪魔は躊躇なく入ってきます。ですから、それをいつもきちっと始末しておかないと、悪魔はすぐに私達の心の中にも入ってきて、ユダのような恐ろしい罪を犯さないとも限りません。ユダが悪魔のとりこになった時、彼の心からイエス・キリストに対する愛がなくなっていました。
愛がなくなると、必ず憎しみが湧いてきて、平気で人殺しに加担する道を歩むようになります。 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。(ヨハネ第一の手紙3章15節)とありますが、裏切りも、人殺しも、みな愛がないところから始まります。
悪魔は、私達の心から愛を奪い、憎しみや裏切りの心を注ぎ込みます。しかも、そんな時は、必ずもっともらしい理由をつけてそうさせます。私達人間は誰でも、自分の行動を正当化させなければ、生きていけないので、もっともらしい理由をつけ、いろいろな言い訳をして、自分の心を正当化しようといたします。けれども、本当のところそれは、信仰の堕落であり、悪魔のとりこになっている場合が多いのです。
ですから、私達はだれでも、ユダのようになりうるのだということを知らなければなりません。そうかと言って、いつもびくびくしながら信仰生活をする必要は会いrません。ユダのように、失敗する可能性がないわけではありませんが、彼のように後悔でおわってしまうのではなく、心から悔い改めるなら、必ず又立ち直ることは出来るのです。
しかし、できれば、私達はユダのような生き方を教訓として、悪魔のとりこにならないように注意したいものです。救い主イエス様がどんなに、私達を愛してくださっているのかということを知り、その愛の中に生きるとき、私達はどんな状況の中にあっても勝利の歩みをし続けることが出来るのです。
けれども、たとい大失敗したからと言って、ユダのように自らその人生を放棄してしまうのではなく、主イエス様の愛の中に再び帰って、立ち直ることも出来るのだということを覚えておきたいものです。