9月23日(日)礼拝メッセージ「不滅のみことば」要旨

「不滅のみことば」(ルカによる福音書21章20節~38節)

 この世の終わりの有様について、聖書は恐ろしい状態を示していますが、その中に私達はいくつかの偉大な真理が示されていることを知らなければなりません。即ち
①まず第一に神はこの世を決してお見捨てにはならないと言うことなのです。どんなに悪がはびこった世であってもこの世に神のご計画が進められていく舞台です。
②第二に悪の勢いが増し加わったとしても決して落胆する必要がないということなのです。イエス様の再臨の日の特長は、その日が来る前にすべての道徳は地に落ち、この世が崩れ去ると言うことなのです。しかし、それはすべてのものが滅びてしまう前ぶれではなくて、再創造されようとしている新しい世界の前ぶれだと言うことです。
③第三にここで神の確実な裁きと新しい創造が約束されていると言うことなのです。神は、私達のこの世に対して、正義と憐みをもって臨んでくださるのです。神のご計画はこの世を消し去ることではなくて、神のみこころにかなった新しい御国を創造することです。
 このように、主の再臨は、イエス・キリストに反逆しキリストを拒絶する者にとっては、悲しみ嘆きの時ですが、キリストを信じ、キリストに従う者にとっては、その救いが完成するこの上ない喜びの時なのです。主が再びいらっしゃるその時に備えて、私達はいつでも準備しておくことが大切です。
 主の再臨の時まで、私達はこの地上に生きていることは出来ないかも知れません。しかし、いずれにしても、すべての人は死を経験するのですから、それが何時やってきても良いように神に会う備えが出来ていなければなりません。主の再臨と共に、私達は死の確実さを認めなければなりません。
 更に、私達は、現在の生き方が死後のいのちを左右するという事実も知らなければなりません。そうすれば、死はもはや苦しみや災いではなくて期待される出来事となるのです。死に対して、備えることは、大切なばかりか不可欠なことです。
 すべての人々は罪を犯しております。従って、すべての人々に罪の報酬としての死がまっているのです。ですから、罪を問われた時、イエス・キリストがご自分のいのちをもって、すべてを償ってくださっていることについて、私達は、しっかりとした確信をもっていなければなりません。
 これは罪を告白して、イエス・キリストを私達の罪からの救い主として受け入れることによって得られるものです。私達は、神の御子イエス・キリストへの信仰を告白することによって、罪の赦しを得、神の愛の確かさを受け止めることが出来ます。こうして、私達は疑いも恐れもなく神のみ前に立つことが出来るのです。

9月16日(日)伝道礼拝メッセージ「あなたの道をゆだねよ」要旨

「あなたの道を主にゆだねよ」(詩篇37章1節~9節)

 安倍内閣の支持率低下に一喜一憂している自民党執行部に対して、小泉純一郎前首相が語ったと言うことです。「政治の世界では『鈍感力』が大切である。」と。強い自分の意思(意地)を押し通してきた小泉前首相の言葉がマスコミを通して話題になり、「鈍感力」という言葉が一挙に広まりました。
 もとはと言えば、最近ベストセラーになっている渡辺淳一著の『鈍感力』から来ているようですが・・・弁護士の佐々木満男氏が最近あるクリスチャン向けの雑誌の中で「鈍感であることの大切さ」について次のように語っています。「十年程度前のことですが、ある難しい訴訟事件の第一審で大敗して悩んでいた時のことでした。あれ程一生懸命に取り組み、あれ程真剣に祈っていたのになぜ負けたのか? このまま敗訴が確定したら大変なことになる。」その苦しみを打ち明けたアフリカの友人からずばりこう言われたそうです。
 「ミスター佐々木、あなたはナイーブ過ぎる。クリスチャンはもっと神様を信頼して図太くあるべきだ。裁判で負けたことにも何らかの神様の特別な意図があるはずだから、それを信じて祈っていけばいいではないか!!」
 その一言に、ハッとしました。それまで彼は自分のことを「鈍感」だとか「愚鈍」だと思っていましたが、「繊細」だとか「ナイーブ」だとは思っても見なかった。何か人に質問されても、すぐには良い考えが浮かばないで寡黙な性分のため、人前で話すときも中々歯切れの良い表現が出来ません。一緒に働く弁護士達が皆シャープな切れ者ばかりだったせいか、彼らの影響を受けて敏感になり過ぎたかも知れない。
 そこで、本来の自分に戻ることにしたのです。神様を信頼してあるがままの鈍感な自分になりきる決心をしたのです。地裁判決を不服として高裁に控訴した後は、裁判の結果については考えないことにしました。周りの人が何と言おうと、どんな判決が出ようと一切気にせず、ただひたすら神様のご計画を信頼して、それが実現するまで神様の平安に支えていただこうと決心したのです。その結果、高裁において劇的な大逆転勝利がもたらされました。当事者双方も裁判官も全く予想できないようなことが起きて、関係者全員が非常に喜ぶ結果になったのです。しかも、地裁で勝っていたら、とんでもない悲劇が待っていたことがわかりました。実に負けるが勝ち、負けてよかったのです。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ(詩篇37章5節)

9月9日(日)礼拝メッセージ「忍耐による勝利」要旨

「忍耐による勝利」(ルカによる福音書21章5節~19節)

  私達は、兎に角この世のもののすばらしさに目を奪われがちです。しかし、この世のものがどんなにすばらしいものであってもそれらはやがて朽ち果て、過ぎ去ってしまうものです。
 けれども、だからと言ってこの世のものをすべて過小評価してはなりません。過ぎ行くものであることを承知しながらも、この世において神の栄光を表わすために力を尽くすことは当然のことです。しかし、大切なことは、この世があたかも永遠に続いて行くかのように考えて、この世にのめり込んでしまってはいけないということです。
 やがて来るこの世の終わりも近いのだということを知った上で、主からゆだねられているこの世の仕事に励むことが大切ではないでしょうか? 私達1人1人は、それぞれの立場にあって、今天国への旅を続けていくものであります。栄光に満ちた天国を目指す旅人です。天国の祝福を望み見ているだけではなく、その祝福の状態に完全にいれられることを確信して前進し続けている旅人です。疲れて痛む足をいやし、1歩前に踏み出させて下さる生けるキリストが、私達1人1人と共にいて下さいます。主は、今も生きておられるのです。 
 十字架の苦しみを受けた後、死から甦えられたイエス様は、今私達に苦難に続く栄光を指し示しながら、その輝きを見なさいと招いておられます。ことばでは言い尽すことのできないすばらしい喜びに今満ち溢れているその恵みを思い、見なさいと励ましていて下さいます。
 私達の信仰と希望とは、キリストを死人の中から甦えらされた神にかかっています。私達の生きることと死ぬこと、そして死んだ後の一切を支配される神は、忍耐と慰めの源、希望の源であられる方であります。 
 私達の最終的な喜びと望み・・・それは死から甦えられた栄光の主イエス・キリストが私達を迎えてくださる天国の祝福の中にあるのです。
 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(ローマ人への手紙8章32節) しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(ローマ人への手紙8章37節) しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
 死に打ち勝ち、死の力をも完全に打ち滅ぼして下さったすべてに勝利されたイエス・キリストにしっかりと結び合わされて励んで参りましょう。
世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる(ヨハネによる第一の手紙2章17節) 

9月2日(日)礼拝メッセージ「主が喜ばれる生き方」要旨

「主が喜ばれる生き方」(ルカによる福音書21章1節~4節)

 韓国のある教会で、会堂建築のため献金がアッピールされ、工事が始められましたが、途中であと50万円~60万円はないと会堂は完成しない。このままでは工事をストップせざるを得ないと言うことになりました。
 この教会に一人の貧しいクリスチャンがいましたが、神様の恵みでいつも心は満たされていました。しかし、経済的な問題で彼は残念ながらもうこれ以上どう考えても献金することが出来ません。けれども、このまま会堂建設工事が中断してしまうことには耐えられません。自分も何とかして献金できるようにと真剣にお祈りしていたある日、新聞の広告欄にある眼科医が眼球を一個30万円で買うというのを見たのです。彼はそれこそ、神様の導きだと考えて早速その眼科医を訪ねました。そして、眼球を両方共に買って欲しいと願い出ました。その申し出に医師は驚きましたが、静かに言いました。「まあ、良く考えて下さい。あなたの両眼がなくなったら、あなたは全く見えなくなるのですよ。もう一週じっくり考えて、決心が変わらなかったら来て下さい。
 彼は、一週間祈りながら考えましたが、決心は変わらないので、再び眼科医を訪れて「やはり、良く考えましたが決心は変わりません。どうか、お願いです。私の両眼を買ってください。」と言いました。それを聞いた医師は、彼を奥の部屋に案内して聞きました。「あなたは、大切なご自分の両眼を売ってでもお金が欲しいとおっしゃるには、よほどの事情がおありなのでしょう。よろしかったらそのお金の必要な理由をお聞かせいただけないでしょうか?」
 彼は、答えて言いました。「私は実はクリスチャンです。イエス・キリストはこんな私のような罪深い者のために十字架にかかって死んでくださったのです。このイエス様を礼拝する会堂が今建てられようとしていますが、残念ながらお金が足りないために工事がストップしているのです。私は、何とかお献げしたいのですが、あいにく貧しくて、お献げするお金がありません。だから、私は、この両眼を売って、献げたいのです。」
 これを聞いた医師は感動して言いました。「そうだったのですか。よろしい。早速あなたの願いどおりにしましょう。」と言って家に帰り60万円を持ってきて、彼の手に渡して言いました。「これはあなたの両眼の代金です。しかし、私はあなたの両眼をあなたにお返しします。それほどまでにイエス・キリストを愛しているあなたは、早く教会に行って、これを献げなさい。」
この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。
(ルカによる福音書21章3節から4節)