8月26日(日)礼拝メッセージ「正しい信仰生活」要旨

「正しい信仰生活」(ルカによる福音書20章41節~47節)

 パリサイ派の人とか律法学者達というのは、当時どちらかと言うとエリート集団に属する人たちでした。彼らはまた、宗教指導者という点でもエリート集団でした。
 ですから、一般の人々から尊敬を勝ち得ていましたし、自分達もそういう人間だと自ら認め、プライドを持っていたわけです。
 しかし、そのような人々にとかくありがちな偽善を、自他共に見落としているところに悲劇があったのです。
 主イエス様は、目ざとくそれを見抜いて、ここで指摘していらっしゃるのです。ですから、イエス様が十字架につけられて殺される直前とも言うべき時に、弟子達にこのことをおしえていらっしゃるのも、弟子達が今後陥る可能性のある危険を心配され、警告として語られたのです。そして、このような危険は今日のクリスチャンも耳を傾けて聞かなければならない大切な警告であると言えます。
 では、どういう意味で私達クリスチャンが律法学者達とおなじようなことをしないとは限らないかと言いますと、まず、私達クリスチャンは天国に行くことができるという意味でエリートだと言うことです。イエス様を救い主であると信じたクリスチャンは、誰でも天国へ行くことが出来ます。そうすると、まことの神様を信じていないノンクリスチャンに対して、どうしてもエリート意識を持つことになりがちです。そこからクリスチャンでない人たちを自分達よりも下にいる劣った人々だという思いを抱きやすく、その人たちを救いに導く場合でも「この哀れな人々を救ってやるんだ。」という高慢な思いを持たないとも限りません。そのような人々に仕えるという愛と奉仕の姿勢が欠けてきますと、とかく威丈高に構えることになりかねません。これはイエス・キリストが期待されている本来のクリスチャンの姿勢とは明らかに違います。それだけでなく、信仰生活が長くなると、とかく初めの感動や、救われた時の感激が薄れていって、信仰生活をつい惰性で送ってしまうことになりかねません。そうなると、この世の価値観や生まれながらの肉的な思いに支配された生き方に陥ってしまいます。
 なぜなら、本来の私達クリスチャンはこの世の流れに抵抗して生きることが多く、その力は、神様から与えられるのですが、私達の生まれながらの性質は、いつも安易さを好み、自然の流れに流される方が楽なので、ついそのような生き方を選びがちになるからです。つまり、この世の流れに抵抗して生きるには、かなり努力が必要ですが、この世の流れに流されて生きるには、何の努力も必要ないのです。
 ですから、意識的に私達クリスチャンは日ごとに父なる神様と交わりを大切にし、神様から新しい命をいただき、生かされて必要があるのです。

8月19日(日)伝道礼拝メッセージ「水路のそばに植わった木」要旨

「水路のそばに植わった木」(詩篇1章1節~3節)

 真の愛(神の愛)を失った私達人間は、自分だけを愛することしか生きがいを感じられなくなりました。その生活は、ちょうど根から切り取られてしまった草花のように死に、やがて滅んでいきます。切り取られてしまった草花のように死にやがて滅んでいきます。切り取られた直後しばらくは美しさを誇り、その新鮮さは人の心に癒しを与えます。しかし、しばらくすると過去のすばらしさを懐かしく思うだけの空しい思いに淋しくなるのです。
 かって、文豪ゲーテは、不安が多い生き方の要因を「洋服のボタンの掛け違い」と言いました。初めのボタンを掛け違えるとすべてが狂ってくる。更に悪いことには、違いに気がつくのは最後のボタンになってからなのです。
 ここに美しい詩篇の1節があります。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える(詩篇1章3節)いつまでも枯れることのない、美しい人生の例がここに記されているのです。その秘訣は「水路(流れ)のそばに植わった木」にあります。一体この「水路(流れ)」とは何を意味しているのでしょうか。この詩篇はこのような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
(詩篇1章2節)ことだと言っています。主のみことばこそ、私達の人生の「生ける水」です。それは、私達人間が失っていた神様の愛、即ちあの十字架で示されたイエス・キリストの愛よりほかの何ものでもありません。
 この愛が私達の魂に回復する時、私達は、孤独感から解放され、自我を克服する力が与えられるのです。それは、イエス様を救い主として信じる信仰によって与えられるのです。
 イエス・キリストは言われました。この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう(ヨハネ福音書4章13節~14節)

8月12日(日)礼拝メッセージ「生きている者の神」要旨

「生きている者の神」ルカによる福音書20章27節~40節

 神様には無限の富があり、無限の知恵があり、無限の力があり、無限の愛があります。だから、
神様をもっているということは、あらゆるものを満っていることなのです。これは、百万人の味方をもっているというよりも、もっと有力な力です。
 ですから、パウロは言っているのです。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか(ローマ8章31節) 神様が味方であるならば、私達は、恐れることはないのです。しかし、神様が味方でなければ、恐れが一杯あります。
 罪というものは、神様と私達を全く引き離してしまいます。罪を持っている限り、神様を味方にすることは絶対出来ないのです。
 ですから、神様によって罪を赦していただき、イエス様の十字架の血によって罪が赦され、きよめられる時に、恐れなく神に近づき、神様は、私達に近づいて共にいてくださり、私達のすべてになって下さるのです。
 ですから、まだ罪と言うものから解放されていないならばこの尊い約束を信じることは出来ないのです。しかし、罪赦され、神の子どもとしていただいた私達を、どうして神様は、お捨てになることが出来るでしょうか。私達のために、ひとり子の尊い十字架の犠牲を払って、私達を買い取って下さったのです。莫大な代価が既に支払われているのです。
 従って、神様は、私達をお捨てになることは決して出来ないのです。又、神様は、私達をキリストの花嫁として下さいました。教会は、キリストの花嫁です。花婿である主がどうして、花嫁なる教会をお捨てになることがあるでしょうか。
 又、神様は、中途半端で手を引かれるようなお方ではありません。成し始められたわざを完成しなければやまないお方です。今日まで、神様は忍耐と寛容をもって私達を取り扱って下さいました。やがて、完成される最後の日を期待しながら、共にいてくださるのです。ですから、如何考えても、絶対に神様が、私達をお捨てになるということはあり得ないのです。
 どうぞ、きょう、この約束のみ言葉神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである(ルカによる福音書20章38節)わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない(ヘブル人への手紙13章5節)という、神様の約束を堅く握っていただきたいのです。そうすれば、きょうから皆さんの生涯が変えられ、豊かにされるのです。喜びと、希望と、平安と、満足の生涯を送ることが出来るのです。
 信仰とは、そういうものです。信じたその瞬間から、神様は驚くべき力を与えて下さいます。喜びに満たして下さいます。「神様、このみことば、このお約束は、私のためであることを信じます。」と告白すれば、あなたの力と喜びとになるのです。

8月5日(日)礼拝メッセージ「神のものは神に返しなさい」要旨

「神のものは神に返しなさい」ルカによる福音書20章20節~26節

 神のものは神に返しなさい(ルカによる福音書25節)とおっしゃったイエス様のみことばは、どのような意味があるのでしょうか。
 第一に、神様を信じている者の意識についてです。神様を信じていない人たちからは、自分が苦労して働いて得た大金を、自分の好きなように使って何が悪いかと言われそうですが、私達クリスチャンは、神様から何をいただいき何を預かっているのか、どのような生き方を神様の前にしたら良いのかと考えます。
 第二に、もう少し具体的なこととして、神様からいただいたものは何かと言うことです。私達一人一人に与えられている賜物、才能です。賜物、才能がない人など一人もいません。(才能)とは何かが出来ることだと思われがちですが、私が私という存在であるということなのです。それは、内側に既に与えられている何かがあるから引き出されるものではないでしょうか? 
 あなたという人間の存在とは何か、私という存在とは何か、それがいかに価値のある存在かということがわかるのは、まことの神様を信じた者達だけです。これは、大変大きなことなのです。
 私達のお金も、時間も才能もすべて神様からいただいたものです。正確には、神様からお預かりしたものです。それを神様に返すことが、信仰をもって管理するということです。
 才能がどれだけ私達にあったとしても、罪の支配の中でそれを管理していると必ずすべてが悪くなっていきます。時間やお金をレジャーの為につかうことは、決して悪いことではありません。しかし、罪によって支配され、人にも言えないようなことの為にそれを使うとすれば、神様に返すどころか、全く逆になってしまうのです。
 第三は、(神のもの)を問う態度です。神様にお返ししているかどうか、自問自答する必要があるのです。問い続けると言うことです。カイザルには、いくら支払えと具体的な金額を請求してきます。税金だけではなく、いろいろなことを要求してきます。けれども神様からは一切請求はきません。ですから、私達は、自分のもっている時間や才能やお金のほとんどをつい自分の為に使ってしまっているのではないでしょうか。神様に対して常に私達がどのような意識を持っているかを問い続けることが大切です。父なるまことの神様を信じる者として、自分の生き方を考える、神様のことを考える、隣人のことを考えるそうすることで、(神のものは、神に返す)ということが私達の身についてくるのです。