「ぶどう園の主人と農夫」ルカによる福音書20章9節~19節
イエス様が語られた聖書箇所の「たとえ話」で主人とは父なる神様、ぶどう園とは神の国、主人から送られたしもべ達とは、旧約聖書の時代の預言者たち、そして主人の息子とは、主イエス・キリストご自身、農夫たちとはイスラエル民族その中でも特に指導者達のことをあらわしています。
従って第一にイスラエル民族に対する実に長期にわたる父なる神様の忍耐があったことがわかります。しかし、その忍耐は、ひとり子イエス・キリストを彼等が殺す時迄であることが予告されているのです。
第二に、神様の報復のことが語られています。家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった(ルカによる福音書20章17節)と、イエス様が言われたことばは、旧約聖書詩篇118篇22節の引用です。この言葉は、過越しの祭の時に歌われていた聖書の箇所の一つですから、人々によく知られていました。
主イエス様は、ここで「礎の石」(隅のかしら石)をご自身に当てはめ、「家を建てる者たち」をイスラエルの指導者達に当てはめ、家をたてる者たちが大切な石を捨ててしまうように、農夫達は、主人の息子を殺しました。それは、当時の指導者達が、イエス様ご自身を殺すことの預言だったのです。そして、後になって主イエス様は、家を建てる時になくてはならない最も重要な「礎の石」となられたのでした。
けれども、「礎の石」を見捨てたイスラエルの民は、神の国に入れなかったばかりでなく、やがて悲惨な結末を迎えることになるのです。このことは、彼等がローマ帝国に対して独立を試み、エルサレムの都に立てこもったものの、約40年後の紀元66年から70年にかけての戦いで敗れ、悲惨な死によってエルサレムの都が滅亡するという形で起りました。そして、現在もイスラエルの人々は、神様の国に入ることが最も困難な民族となっているのです。
このたとえ話を私達にはてはめて考える時、まず私達の「ぶどう園」に相当する私達の人生には、真の所有者である神様が折られることを知らなければなりません。もし、私達がその神様のご支配の中に生きていないならば、手遅れにならないうちにイエス様を信じて、神様のご支配の中に入らなければなりません。
救い主イエス様を拒んだイスラエルの人々は、1900年にわたって地上の自分達の国を失い、そしていまだに大部分の人々が、イエス様を拒んだままで神の国に入れないでいるのです。この現実は、私達も入れるチャンスがある間に入らなければならないと警告されているのです。
「イエス・キリストの権威」ルカによる福音書20章1節~8節
武力によって人を強制的に従わせようとすることは間違った権威の行使です。従わなかったら殺すという間違った権威です。又、専門家ゆえの傲慢さがもたらす間違った権威があります。日本の血友病の権威であると言われていた医師が、危険な血液製剤であるのに、危険はないとしたことで使用が続けられました。
結果として、恐ろしいエイズを蔓延させてしまい、大きな危険と恐怖を人々に与えてしまうことになりました。
神様からの名を借りて、やりたい放題をすることも間違った権威の行使です。
イエス様は、(祈りの家)が(強盗の巣)になっている上、祭司達が神様の名を語りながら、本当に正しいことを行っていないことをとがめて、いわゆる(宮きよめ)となわいました。自分達の利欲の為に、神様の名を借りて権威を行使することは、当然間違った権威の行使です。
では、正しい権威とは何でしょうか。日本語の辞書には、「正しいことを強制して服従させる力、または人、」とあります。裁判官は法律の下に、人を従わせ、死刑さえも宣告できます。
聖書学者の赤木善光師は、著書『信仰と権威』の中で、権威について「説得力があり、信頼性があること。あるいは、模範であり、威厳があること」と説明しています。さらに、「自由な思いで、且つ自発的な意思で従おうと感じさせる力が権威である。」と説いています。
古代社会では、王様は最高の権威者で何でも自由に選択できますが、奴隷は何も出来ません。わかりやすい例です。
現代の一般社会では、法律が権威となっています。ですから、すべての争いごとは、法律によって解決しようとします。けれども、その法律も絶対的なものではなく、問題がある場合も起り得るのです。
私たちクリスチャンは、最高の権威は神様にあると教えられています。ですから、いつも神様第一です。神様こそが最高の権威であるとわからなかったら、人生のすべてが絡まった糸のようになってしまいます。ですから、神様の権威を受け入れることは、とても大事なことなのです。死からよみがえられたイエス様は、わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた(マタイの福音書28章18節)とおっしゃっています。イエス様は、このようなお方なのです。そして、このイエス様の権威を受け入れた人は、だれでも救われ、変えられるのです。ペテロは、イエス様の力あるわざと教えとに接して主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です(ルカによる福音書5章8節)とひれ伏しました。一方パリサイ人や大祭司達は、自分達の立場を絶対に壊したくなかったので、受け入れませんでした。けれども、神様を絶対的、真の権威あるお方として受け入れるとき、人は謙虚に也、神の前に自由に出て行くことができるようになります。
「神の愛」ローマ人への手紙5章1節~8節
アメリカの大統領リンカーンが、まだ司法研修生だった頃のことですが、馬の背に乗って走っていると道の脇にあるドブ川に一匹の子豚が落ちてもがき苦しんでいました。それを見たリンカーンは、馬から飛び降り、周囲の人々の制止も聞かないで、大急ぎで上着を脱ぎ、ドブ川に入り、子豚を抱きしめて上がってきました。服も、顔もドロだらけです。しかし、彼の顔は満足感で一杯でした。
「なぜ、そんなこと迄するんですか? ただの子豚一匹の為に?」と誰かが質問すると、彼はただ一言「そうしなければ、子豚は死んでしまうからね。」と答えたということです。彼は、子豚を兎に角助けたかったのです。ただ、それだけです。
神様が、私たちを愛されたのもそれと同じです。神様が一方的に私たちを愛して下さらなければ、私たちは、滅びてしまうところでした。私たちは、ドブ川に落ちた子豚のように、もがき苦しんで生きています。そして、もがけばもがくほどますます深みにはまっていくのです。罪の泥沼は、それほど深く、それほど恐ろしいのです。私たちは、もう首まで泥の中にどっぷり浸り、さらに、ズブズブ沈んでいきます。もう助かる見込みはありません。
神様は、こういう私たちの姿をご覧になり、私たちの悲鳴を聞かれ、このままでは滅びていくしかないのを知らされたのでした。
リンカーンは上着だけを脱いだのですが、天地宇宙万物の造り主である神様が人となられ、時間空間を超えたお方が時間と空間の制約の中に入られたのです。
人となって、この地上においでになり、私たち人間のがめ煮与えて、与えて、与え尽くして下さったにも関わらず私たちは何をも報いず罪を犯し続けてまいりました。にもかかわらず、私たちの身代わりに、私たちの罪を背負って、十字架上でその裁きを受けて下さったのです。それは、本来呪いの下にある者をして、祝福の下に置いて下さるためでした。
しかも、それを完全に成し遂げて、「完了した!! (すべてをなし終えた)」と言って息を引き取られました。
しかし、父なる神様は、救い主イエス様を死人の中からよみがえらせて下さり、贖いのわざ(救いのわざ)が完成したことを承認し、保証されたのです。残されているのは、私たち一人一人がそれを受け入れることだけです。
「祈りの家」ルカによる福音書19章45節~48節
ピリピ4章6~7節で、パウロは心配する代わりにすべきことを三つ教えています。
第一は、祈りです。パウロがここで用いている言葉は、神様に話しかけることを意味する時に、ごく普通に用いられる言葉で(祈り)に関わるすべてのことを意味していますが、特に、神様を礼拝するという側面を強調しているのです。神様に向って、祈るとき、神様の偉大さを認め、神様を讃美して神様をほめたたえ敬い、自分自身をこのお方にささげることが求められています。
神様こそが、すべてを支配される全能の主であることを認めるならば、心配事をこの神様に委ねることが出来るのでうす。
第二は、(願い)です。(願い)とは、私たちが何を必要としているか神様に伝えることです。もちろん、神様は全知全能ですから、私たちが伝える前に、私たちの必要な願いごとをすべてご存知です。ですから、ここで言う(願い)とは何かを私たちが真剣に神様に求めることであり、必死に神様に助けを求めることです。又、自分自身か、あるいは、他の人たちのために願い事を神様のまえに差し出すと言うことです。
ですから、心配事があるなら、それを神様のもとに持って行きましょう。神様に助けを求めましょう。神様に熱心に願い求めましょう。
イエス様もおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。」
祈りについて、パウロがすすめている第三番目のことは、(感謝)です。
私たちは、直面している問題に気をとられすぎていて、過去、神様が私たちにどのような恵みを与えて下さったかを忘れています。神様が、様ような恵みとあわれみをもって私たちを取り扱って下さったことを忘れています。けれども、かって神様がどのように心を配って下さったかを私たちが思い出すならば、心が安らかになります。
私たちが心配するのではなく、祈るなら自分で背負ってしまった重荷を全能の神様の大きな御手の中に移すことが出来ます。心配事をひとたび神様にゆだねたら、神様が私たちを愛し、私たちが直面している問題を真剣に受け止めて処理して下さることを信じて感謝しましょう。このお方には、私たちの祈りに答えて下さる力があります。
神様は、人の弱さを取り扱う力をお持ちですから、もし何かで、自分の弱さに悩む人がいるなら、その弱さを神様にゆだねましょう。家族のことや、仕事のこと。あるいは、自分の健康、今後のことについて気にかかり、夜中に目が覚めたら、祈りましょう。心配することをやめるように、又、持っているエネルギーを心配することで消耗させるのではなく、祈るために用いるように自分を訓練しましょう。心配はエネルギーの無駄遣いですが、祈りは建設的な行為です。
「平和への道」ルカによる福音書19章41節~44節
「平和」とは、どんな状態のことでしょうか。心が平安であること。何事もなく平穏無事であること。安全で繁栄している状態、あるいは、幸福な生活の根拠など、さまざまな考え方があります。
部族間の抗争の絶えないイラクなどの中東地域に比べると日本は平和だという言い方も出来ます。
「平和」とは、言語としては「争い」の反対のことばとして用いられます。国家権力で戦争をそしした時が、平和であると考えられています。争いのない状態を指すことばが「平和」です。けれども、聖書は、創造主である神様と、被造物である私たち人間との間で、正しい関係が保たれていることを「平和」と言っているのです。
神様の前に正しい生活を送っている者には平和が与えられ、悪しき者には、平和(平安)がありません。また、「平和」は、真の救いと密接な関係があります。「平和」という周囲の環境や状態ではなく、救い主イエス様との関係に目を留めなければなりません。
これは、言いかえると、私たち人間の罪の結果として起るあらゆる苦難や問題から開放された状態が真の「平和」と言いかえるからです。この平和の実現のためにイエス様は、エルサレムに向って十字架への道を今、歩んでおられるのです。
イエス様は、神との平和を実現するために、神と人とを隔てている罪の壁を十字架の血汐によって取り除いて下さったのです。このように、和解の道を開いて下さったのです。
家庭の平和を失わせる代表的なものは、家族の死ではないでしょうか。私たちが大切に積み上げてきたものを、すべて無にしてしまうのが「死」だからです。
しかし、クリスチャンにとっては、必ずしも「死」は絶望的なものではありません。もちろん、愛する家族と別れる一時的な悲しみはありますが、永遠のみ国、天国において再会できる希望があるからです。イエス様の十字架によって与えられた真の平和を持っている私たちは、既に「死」の恐れからも開放されているのです。