6月24日(日)礼拝メッセージ「主がお入用です」要旨

「主がお入用です」(ルカによる福音書19章28~40節)

 讃美歌260番は、イギリスの「4第讃美歌」といわれる歌の一つです。原作者オーガスタス・トップレディ(男性)は非常にからだの弱い人で、青年時代の大半を病床で暮らしたひとでした。
 彼は、このような弱い病人でも、自分自身を神に献げるなら、神は喜んで受けて下さると信じて、身も心も生ける神への供え物としました。その結果、神ご自身がトップレディのものとなって下さって、常に彼の慰めとなり、力となって下さいました。
 彼は、38歳の若さでこの世を去ったのですが、彼の作った260番の讃美歌は、世界中の人に歌われているのです。♪「千歳の岩よ わが身を囲め、さかれし脇の血汐と水に 罪もけがれも洗い清めよ。世にある中も 世を去るときも 知らぬよみにも さばきの日にも 千歳の岩よ わが身を囲め」
 特に苦しみ、悲しみの中にある人々に大きな慰めを与えています。
 英国のビクトリア女王は、この歌が大好きでその臨終の時にも、この260番の讃美歌を歌い乍ら息を引き取られたと言われています。
 私たちは、神から受ける大きな恵みに答えて神に自分自身の全部を献げる時、神が私たちの神となり、私たちの宝となり、私たちの力となって下さって、神の喜んで下さる業をなさせて下さいます。
 『ちいろば』という題名の榎本保郎師の自叙伝があります。(ちいろば)とは、イエス様をお乗せしたろばの子のことです。
榎本先生は、「自分はイエス様をお乗せする力もない小さなロバだけれども、イエス様が乗ってくださることによって不思議な力が出てくるそういうロバだ。」と言っておられます。榎本師自身、信じたり、迷ったり、前進したり、後退したり、意気盛んになったかと思うと、ぺしゃんこになったりしながら歩んでいかれました。
 彼の背には、イエス様が乗っておられる。だから、榎本師は、決して前進を放棄することはなかったのです。彼に接する限りの人々は、そこに一人の真実なキリスト者の姿を見出して感銘を受け、彼も又、それぞれ小さな子ロバとしての歩みを続けたのです。
 私たちは、力の足りない小さなロバの子です。しかし「主がお入用です。」と言われたときは、喜んでいつでも「はい、私を用いて下さい。」と主のみ前にひざまづく者でありたいと願うものです。そうすれば、必ず主が力を与え、祝福して用いて下さいます。

6月17日(日)伝道礼拝メッセージ「神の祝福の約束」要旨

「神の祝福の約束」(申命記28章1~14節)

 もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。(申命記28章1~2節)父なる神様のみことばは私たち全ての者に与えられた約束であり、神様はその約束を必ず守られる方です。ですから神様のことばは必ず現実となるのです。
この事は、聖書の初めから終わりまで繰り返し一貫して主張されていることです。この点を明らかにされた実例として創世記1章に記された創造の記事に注目する必要があります。そこには 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1章3節)と記されています。「光あれ」との神様のことばは、その通りになり、成就したのです。「光あれ」との神様のことばと「光ができた」事実とは、切り離すことは出来ません。神様のことばは必ず現実となり、約束は成就します。なぜなら父なる神様は、約束を守るお方だからです。
ですから、新約聖書のヘブル書の記者も明言しています。「約束された方は真実な方ですから私たちは、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
約束を守られる真実な神様は、私たち一人一人のためになし始められた救いのみわざを必ず最後まで守り完成されるお方です。
ですから、使徒パウロも確信をもって祈ることが出来たのです。  どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。(第一テサロニケ5章23~24節)
私たちは、人生における数々の試練に直面することもあります。けれども、その試練の中で、神様は必ず脱出の道を備え、信じ従って行く者に、ご自身の真実をお示しになるのです。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである(コリント人への第一の手紙10章13節)

6月10日(日)礼拝メッセージ「預けられたミナ」要旨

「預けられたミナ」(ルカ福音書19章11節~27節)

 神の国における評価と言うものは、この世の評価とは全然違います。神の国の前では、神から預けられた自分の分をどれだけ忠実に働かせたかという「忠実さ」だけが評価されるのです。つまり、「忠実さ」とは、仕事の量ではなく、その人のあり方の問題なのです。
 19世紀のアメリカ随一の大伝道者、D・L ムーディという人物がいました。まだ、マイクもない時代でしたが、彼は約一億人の人々に福音を語り、百万人の魂を救いに導いたと言われています。
更に彼はシカゴにムーディ聖書学校を作って以後、多くの伝道者を送り出していることでも有名です。彼は、少年時代に早く両親をなくし、靴屋の小僧をしていました。16歳で回心して熱心なクリスチャンになった彼は、嬉しくてたまらず牧師に向って「先生、私を教会学校の先生にして下さい。」と頼みました。
ところが、冷たい牧師は「お前のように学歴もなく、しかも吃りで、上手に話が出来ない者には、教師としては訳に立たない。」とにべもなく断られてしまいました。仕方なく、彼は、日曜日になると、靴屋の倉庫を整理して、自ら教会学校を始めたのです。
 吃りながら、トツトツとした話し方でしたが、その熱心な伝道によって、ついに千人の子どもを集めるまでに至りました。
また、大人の礼拝には、自分の収入の中から友人に日当を払って、毎日必ず3~4人を教会へ連れて行きました。こうした主に対する忠実さを、主は見捨てられるはずはありません。やがて、彼はサンキーという人物と組んで、アメリカ全土からイギリスまでに進出して、神のわざを推し進めていったのです。
この主のものに対する怠惰は、神の国に対するいいかげんな態度のことであり、私達が神から委ねられた能力、持ち物、時間の管理などに対していいかげんであるならば、主が再び来られるとき(22節)「悪いしもべだ。私は・・・あなたを裁こう。」と言われるのです。そして、「良い忠実なしもべ」に対しては、「主人の喜びを共に喜んでくれ。」と言われるのです。主人と一緒に喜んでくれ(マタイ福音書25章21節)主の喜びに招かれるのです。
 『ウェストミンスター小教理問答』第一問に、「人生の主な目的はなんですか?」とあり、「人生の主な目的は神の栄光を表わし、かつ永遠に神を喜ぶことです。」と答えられています。神の前に『良い忠実なしもべ』だけが神を喜び続けることが出来るのです。

6月3日(日)礼拝メッセージ「急いで降りてきなさい」要旨

「急いで降りてきなさい」(ルカのよる福音書19章1~10節)

デンマークの首都コペンハーゲンに、彫刻の名作がありました。これを聞いたローマのある若い彫刻家が、参考のために是非見物したいと、借金をして旅費をつくりわざわざコペンハーゲン迄やってきました。
若い彫刻家は、期待に胸をふくらませて、名作と言われるその彫刻の前に立ってしばらく眺めていましたが、がっかりして「人のうわさは、あてにならぬものだ。」と失望してつぶやきながら、その場を立去ろうとしました。
その時、近くで遊んでいた子供達が彼に近づいて「おじちゃん、どこから来たの?」と聞きました。「おじちゃんは、遠いローマの町から来たんだよ。」「ここへは何をしにきたの。」「わざわざ、この彫刻を見に来たんだよ。」「ふ~ん? それで、どうだった?」「どうも、こうもないよ! 全くばかばかしくて話にならない。」
吐き捨てるように答えて帰ろうとする若い彫刻家の後姿に、子どもの何気ない一言が返ってきました。「おじちゃん、皆ここに来る人は、イエス様を拝んでいくんだよ。」
ハッと、我に返った彼は、立ち止まり再び引き返してきて、そこにしゃがみこんで下から仰ぎ見たその瞬間、彼は思わず息をのみました。
丁度、朝日の輝きを受けたそのキリストの顔は、とても彫刻とは思われず、まるで生きて語りかける様に、神々しくすばらしい出来栄えだったのです。これが、後に有名になったドール・バルトソンの「昇天のキリスト像」だったのです。
対等に眺めていたのでは、或は上から見下ろしていたのでは何の得るところもなかった若い彫刻家でした。しかし、ひざまずいて謙遜な姿になって仰いだとき、それは、生きて語りかけ給うキリストの姿をそこに見ることが出来たのです。
桑の木に登ったザアカイの姿が象徴する。私達の姿、それは高慢な人の心の表われです。被造物である人間が、創造者である神様を上から見下ろす以上に、不遜な姿があるでしょうか。自分の不完全な知識や経験で、宇宙の創造者である神様を批判している姿程、身の程知らずな姿はないのです。
いちじく桑の上からイエス様を見下ろしているうちに、失われ滅び去らなければならなかったザアカイでした。高慢な人には、神様の救いは届きません。孤独な人生、高慢な自己中心に歩んできた人生を後にして、急いで降りてきて、イエス様を迎える人は幸いな人です。皆さんはどうでしょうか。ザアカイのように金や物によって幸せを得られるものと思い込んで裏切られ失望なさったことはないでしょうか?
多くのものに囲まれながら、解決を見出せず、重荷を負って出口を必死に捜し求めていたザアカイでした。そのザアカイをイエス様は捜しだして、彼の心にひかりを与え、救いの喜びをもって包んで下さったのです。イエス・キリストはザアカイのためだけではなく、私のため、あなたのために、十字架で死なれたのです。