「神の国に入れる者」(ルカによる福音書18章15節~17節)
19世紀のイギリス人の大説教家スポルジョンは言いました。
「私は2700人の会員を持つ教会を牧会してきたが、その内幼少時代から既に教会に受け入れられていた人は、一人も脱落したことがない。」
正しい教会学校教育が行われ、また、正しい家庭での宗教教育が行われるならば、私たちもこのスポルジョンの輝かしい体験を前世紀の遺物としてではなく、今日の現実として持つことができるのではないでしょうか。
子供たちの信仰に関する責任は、両親ばかりではなく、教会全体のものです。この事がよくわかってきた時、私たちは本当に神様に祝福される教会を建て上げることができるのです。
するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である(ルカによる福音書18章16節)
弱くて、小さい、とるに足りない様な私達一人一人を、それ程までに大切に思っていて下さる、イエス様の心を言い表されたものでもあります。
イエス様がご自身を信じる小さい一人一人を大切にして下さると教えられているこの様な主の大きな愛を感謝すると共に、その様に主に愛され、大切にされている私たちがお互いに他の人をつまずかせる様な存在にならないよう注意したいものです。小さな存在である一人一人を大切にして、交わりをもってきたクリスチャンには、終わりの日に主が言って下さいます。
言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである(マタイによる福音書25章40節)
マタイによる福音書18章13節の100匹の羊の内の1匹が迷い出た話の中で、「迷わなかった99匹の羊以上にこの1匹を喜ぶ」とは意外なお言葉ですが、ここにも小さい者、弱い者、劣った者に対して、特に心を注いで下さる主の愛の深さが示されているのです。また、それはとりも直さず、〈小さい者たちのひとりが滅びることを欲し給わない。〉あなた方の父のみこころであると、イエス様は示されたのです。
同じ様に、父なる神様も私たち一人一人の名を命の書に記しておられます。その一人が滅びるということは、確かに絶対に神様の御心ではありません。どんなに小さな子供や、赤ん坊のようなこの社会の中で人間的に見れば無価値に見える一人一人も、主から名前を呼ばれており、神の御前では一人の神の子としての値打ちが認められている事実を覚えたいものなのです。
「祝福のいのちを選びなさい」(申命記30章14節~20節)
わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。(申命記30章19節)
これは、ただ命の問題だけではありません。私たちに与えられている人生の一瞬一瞬において、私たちがしている選択がいかに重要かということです。私たちは、いつも前向きな考えで、生きる道を自分で選んでいかなければなりません。
後ろ向きの、否定的な考えが、私たちの心の扉を叩くのを防ぐことは出来ません。しかし、扉を開けて、それを中に入れるか、どうかを決めるのは、私たちです。戸口をふさいで、良いことだけを考えるような習慣を身につけたいものですあなたは全き平安をもって/こころざしの堅固なものを守られる。(イザヤ26章3節)とあります。いつも正しい考え方をすれば、私たちはどんな人生の海の嵐においても、平安な心を持つことが出来ます。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。(ローマ8章31節)どんなにつらい時も、全能の父なる神様が、私たちの味方であることを忘れないようにしましょう。神様がいつも、私たちのために戦ってくださること、従って、私たちを打ち負かせるものは、何も存在しないことを忘れないことです。
これまで、皆さんも、数々の失望を味わったこともおありだったでしょう。思い通りに行かなかったことも沢山あったでしょう。人から不当な扱いを受けたこと、逆境に陥ったこともおありになったのではないでしょうか?
しかし、父なる神様と共にいるならば、決して出口のない行き止まりに追い詰められるというようなことはありません。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(コリント人への第一の手紙10章13節)
神様はいつも脱出の道(のがれることのできる道)も備えて下さっているのです。私たちには常に新しいスタートが用意されているのです。ただ、私たち自身も希望をもって、私たちのなすべき選択をし、決断をして実行して行かなければなりません。
常に後ろ向きの否定的な考え方とのせめぎ合いは続きます。ですから、できる限りしっかっりと自分の心を守り、考え方をコントロールする術を身につける必要があるのです。罪深いこの世の中を生きていく時、どれだけ私たちが前向きに生きてもいても、挫けそうになることはあります。けれども、私たちが父なる神様を信じ続けていくならば、神様が私たちのために戦って下さいますから、必ず勝利へと導かれるのです。
「イエス・キリストの復活」(マタイによる福音書28章1~10節)
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネによる福音書16章33節)
私たちの罪のために、十字架にかかり死んでよみがえられた救主イエス様は、今何を語ろうとされているでしょうか?
それは、私たちがいつまでも敗北と失望とを引きずった人生を歩み続けてはいけないということです。
たとえ、いまがどんなに苦しくても、私たちにはすばらしい未来が用意されているのです。砕かれた夢も、奪われた喜びも必ずすべてが元に戻ります。いや以前よりも何倍も、何十倍もまさった恵みと祝福と喜びが用意されています。神様は救い主イエス様と信じる私たちすべての者がこれから後本当に満ち足りた人生を送ることを望んでおられるのです。
神様が望んでおられるのは、私たちがこのイースター(復活祭)が終わってから数日間は嬉しい気持ちで過ごせるといったことではありません。父なる神様は、私たちの人生をこれからもずっと喜びと幸せで満たしたいと願っておられます。
ただ生きるためにだけ働くのではなく、毎日の仕事にやりがいを、そして生きがいを見出すことを望んでおられます。
若い人たちのためには学校生活を、そして、お友達との交わりを楽しむことを願っておられます。同時に神様は、私たちがすべてのことに勝利することを用意しておられるのです。私たちは、今視野を広げて、この神様の勝利に目を向けさせていただきましょう。わくわくするような喜び、恵みがもたらされることを期待し、どんな困難にも挫けないように祈ってまいりましょう。
私たちは、たいくつな或は、苦しくつらいばかりの人生を生きるために命があたえられているのではないのです。私たちのこれからの歩みに、恵みと祝福がもたらされるかどうかを決めるのは、父なる神様に対する私たちの信仰です。私たちに人間的な狭い考えで、神様の用意しておられる恵みと祝福を制限してしまうことのないように注意しましょう。より大きな、より良いもの、よりすばらしいものを求めていきましょう。神には、なんでもできないことはありません(ルカによる福音書1章37節)私たちが未来を信じ、父なる神を信じれば望みうる最高のものを得ることが出来るのです。
今日から胸を躍らせて、一日一日を期待をもって生きてまいりましょう。そのために救主イエス様は、死からよみがえって下さったのです
「自分を低くする者が高くされる」(ルカによる福音書18章9~14)
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカによる福音書18章14節)
この教えは、大変重要です。キリスト信仰の本質ともいうべき重要なポイントです。私たちの信仰生活の姿勢は、この取税人のように神の前にへり下ることにあると教えています。
しかし、案外多くの人々がここで主に否定されているパリサイ人の姿を自分の手本にしようとしています。つまり、自分は、真面目にちゃんとやっているから立派だと思います。その為に本人も安心し、時には自慢し、パリサイ人のように他人を見下げたり、批判したりしています。
そうではなく、キリスト信仰、祝福されるクリスチャンの姿勢とは、ダメな自分を赦して下さったことに対する感謝が原動力となって打ち出されてくるものなのです。こんな私のようなダメな者を愛し、赦し、命をさえ捨てて下さる方への感謝の行動なのです。
律法(聖書)を守って真面目な人間になり、より良い自分を作り上げ自己満足し、人からも好感をもたれようとして、聖書の命令に取り組むのではありません。そうするならば、このパリサイ人のようになるでしょう。ダメな人間を赦し、造り変えて下さるイエス様にダメな自分を委ねること、これが自己変革の秘訣なのです。
①いつもダメな自分であることを忘れない。(うぬぼれてはならない。)
②いつもダメな自分を赦して下さるキリストにとどまっている。
③いつもダメな自分を赦し、造り変え、しかも新しく用いて下さる主に感謝する。
私達は、どんなに努力を積んでも、神のさばきから逃れることはできません。どんなに努力しても、努力している人間そのものが失格者なのですから。誰一人として創造主の義にかなう人はいません。
しかし、神の愛は、この失格者の人間(私)を赦すために、(自分の義をも満たすためにも)自らひととなり、私たちに代わってその尊い命を犠牲としてささげられました。この犠牲を自分のためと信じる時、主イエスは私たちを助け永遠の祝福を与えて下さるのです