3月25日礼拝メッセージ「失望しないで祈る」要旨

「失望しないで祈る」(ルカ18章1節~8節)
 

信仰生活において、失望は禁物です。なぜならさて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル人への手紙11章1節)であって、そこに希望があるからです。この希望は決して失望に終わることはありません。けれども、私たちが失望しないでいつも祈ることができるのは、私たちの叫び求めを放っておかれない恵みの神がおられるからです。
 ですから私たちは、その恵みの神が私たちのすぐそばにいらっしゃって、私たちを助けて下さろうとしていることを良く知っておくことが大切です。そうすれば、私たち人間の熱心さや努力によってではなく、私たちの父なる神様がすぐそばにいて、いつでも私たちを助けて下さいます。
 どんなに長い間祈っても、祈っても聞かれないような祈りがあるかもしれません。しかし、それでも失望しないでいつでも祈り続けることができるのは、恵み深い神様がいつもすぐそばにいてくださるからです。私たち人間の熱心さや、努力だけでは決して信仰生活は長続きしません。
 信仰の人、ジョージ・ミューラーにも、48年間祈り続けながら答えられなかった祈りがありました。彼は、多いときには2000人余りの孤児をただ祈りだけで養ってきました。それは、並大抵のことではありませんでした。彼は、ドイツ人でしたが、外国宣教への召しを受けてイギリスに渡ったのです。それが1827年でした。
 ところが、外国宣教への道は閉ざされて、その代わりにそこで、孤児院の働きを始めることになりました。このため、外国宣教の祈りは、彼が始めた孤児院の働きを娘婿ライトにゆだねた後、1875年になってやっと聞かれ、実現したのです。その間ジョージ・ミューラーは、失望しないでいつも祈っていました。
 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか(ルカによる福音書18章7節)と語られたイエス様の言葉に、当時、迫害され苦しんでいた弟子たちは、どんなに慰められ、また、励まされたことでしょうか。
 苦しい時には、祈りとは言っても叫び求めることしか出来ないことがあるものです。その叫びを神様は決してそのまま放っておくようなことをなさる方ではありません。ですから、信仰を持って失望しないで、祈り続けることが大切なのです。

3月18日(日)伝道礼拝メッセージ「与えるものの祝福」要旨

「与えるものの祝福」(使徒20章34~35節)

 施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。(箴言11章24節~25節)
少し前に、サウジ・アラビアのある男性に関する興味深い記事を読みました。彼は、非常に裕福で、まるで宮殿のような大邸宅に住んでいました。車や飛行機や船も数多く持ち、とにかく想像を越える大金持ちです。
しかし、興味深いのは、彼のお金の使い方でした。彼は、2,3ヶ月に1回国内の貧しい人たちを何百人も自宅に招いて彼等が望むものを聞いては、たいていの場合のぞみ通りのものを与えていたというのです。車を欲しいという人には、車を。家がほしいという人には、家を。入院手術費用が欲しいという人には、必要なお金をという具合に。累計すると、それこそ日本円で何億円という現金、何十億円というものを与えたことになるそうです。うそのような本当の話ですが、このお金持の男性がそれでも尚豊かであり続けられた秘訣がここにあるようなのです。
彼が宗教的な理由から、このような施しをしているのがどうかわかりませんが、与えるという行為にもたらされる祝福の原則は、普遍的に機能するようです。他人のために、何かをすれば、それは、自分に帰ってくるという原則は国籍や、人種、宗教とは関係ないようです。 貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる。(箴言19章17節)との聖書のみことばもあります。
サウジ・アラビアのこの男性は、貧しい人たちを助けることで、神様に貸し、神様はそれを大きな恵み、祝福という形で返されたようです。この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない(マタイ10:42)とイエス様もおっしゃっています。
私たちが与えることのできるものを必要としている人がいます。それは、お金とは限りません。私たちの時間かもしれないし、その人の話に耳を傾けてあげることかもしれない。私たちが祈って差し上げるだけで、その人の心の傷は、癒されるかもしれないのです