「希望は失望に終わらない」(ローマ人への手紙5章1節~5節)
「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ人への手紙5章5節
「貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びるのではない。」詩篇9篇18節 私たちは、いろいろな問題や苦難に悩まされることが多くあります。しかし、そのような中で、「悩むものの望みは、いつまでもなくならない。」とは何と素晴らしい約束でしょうか。現在、たとえどんな悩みの中にあったとしても、望みがあれば生きることが出来ます。
反対に、望みのない人生というものは、たとえ何億、何十億という莫大な富を持っていたとしても、空しく、さびしいものではないでしょうか。(希望)と言うものは、(失望)に終わらせないために、私たちクリスチャンは神様がその望みを支えてくださるのだと、受け止めることが出来ます。そして、私たちの望みは、消え去ることはありません。なぜなら、救い主イエス様にあって、父なる神様の愛が私たちの内に注がれているからです。
現在、たとえ、私たちが貧しかったとしても、もちろん、お金がないという貧しさだけではありませんが、精神的に惨めであるとか、人生に望みをなくしているとか、現時点でたとえそうであったとしても、決して失望することはないのです。私たちには、父なるまことの神様によって明日と言う日が備えられていますし、明日という日に望みをかけることが出来るからです。もし、私たちがどんなに若く、健康であったとしても、明日からの将来に対して望みを持つことが出来なければ、これは生ける屍と同様です。
しかし、心の中に望みを持ち続けることができるならば、どんな苦難の中にあったとしても、明日の救いを信じて喜んで忍耐を持ち続けるためには、私たちにはどうしても父なる神様に対する信仰が必要なのです。信仰は、私たちの全人格を支える力があるからです。
「主のために命を投げ出した人たち」(使徒行伝15章15節~29節)
戦前、中国の上海にてアメリカの伝道者ボブ・ピアスが現地の宣教団体に一夜の宿を求めた時のことです。
真夜中、隣で実をよじるようにして、うめくような声で泣いている男がいました。聞くと21年間辺境のチベットで伝道をしてきた宣教師でした。「なぜ泣いているのですか。」ボブ・ピアスは聞きました。21年間の苦闘の伝道を宣教師は語りました。7年間は一人のクリスチャンもなかったのです。20年を過ぎて、与えられたものはわずか5~6人があつまる小さな教会でした。
しかも、最愛の娘がハンセン氏病(らい病)にかかって、母親(宣教師の妻)と共に、母国アメリカに帰ってしまった後でした。ボブ・ピアスは気の毒に思いすぐに小切手を切り、アメリカの夫人と娘のもとに帰り、静養することを勧めました。だが、その宣教師はそれを辞退しました。「違うんです。私が泣いていたのは悲しかったからではありません。と言って、宣教師はひとつの夢の話をしました。「その夢の中で、イエス様が「私はこれからチベットへ帰るのだけども、お前もかえってくれるか。」と聞かれるのです。こんな小さな、今まで何の成果も上げなかったこんな私を信頼して『帰ってくれるか』と言われるのです。私はチベットを見捨てることは出来ません。わたしは主の愛に感動して泣いていたのです。」
誰も知らないところで、主のために本当に苦闘している人がここにいる。その話を聞いたボブ・ピアスも泣きました。
このことは、後に多くの宣教師を支える団体ワールドビジョンを生むきっかけとなったのです。私たちのために、命をすてて下さった主イエス・キリストの為に私たちも又、命をかけて生涯したがっていくものとならせていただきたいものです。
「恵みによる救い」(使徒行伝15章1節~11節)
『星の王子さま』というフランスの作家(サン・テグジュペリー)の書いた有名な童話があります。
この童話の終わりの方で、狐が王子さまに秘密を贈り物にして次のように言うところがあります。「なに、なんでもないないことだよ。心でみなくちゃ物事はよく見えないってことさ。肝心なことは、目に見えないんだよ。」すると王子さまは、この狐の言葉を忘れないようにするために「肝心なことは、目に見えない。肝心な…」と何回も繰り返すのです。
確かにこの狐が言うように肝心なことは目に見えません。しかも大抵の場合目に見えるものはお金で買えますが、目に見えないものはお金では買えません。
この点について、ノルウェーの詩人アルネガール・ボルグは『お金』という題の詩で次のように言っています。食物はお金で買えるが、食欲は買えない。薬はお金で買えるが健康は買えない。ベッドはお金で買えるが、睡眠は買えない。化粧品はお金で買えるが、美しさは買えない。別荘はお金で買えるが、心地よさは買えない。快楽はお金で買えるが、本当の喜びは、買えない。友達はお金で得られても、友情は得られない。使用人はお金で得られても、忠実さは得られない。静かな日々は、お金で得られても平安は得られない。
確かにそう言えば、お金で買えないものの方が、私たちが生きていくためには、より必要なものではないでしょうか。しかし、よくよく考えて見ますと、お金で買えないものは、皆、無代価で恵みとして与えられる神様からの賜物です。食欲、健康、睡眠、美しさ、心地よさ、本当の喜び、友情、忠実さ、心の平安、
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」みんな恵みとして与えられる神からの賜物です。
たとえば、食物と食欲とを比べてみると、どんなにおいしいご馳走があっても、食欲のない時には、何一つ食べることは出来ません。食物よりも、食欲のほうが大事なのです。現実的にのみ物事を考える人たちは目に見えないものなど、軽んじるかも知れません。しかし、人生にとって肝心なものはかえって目に見えないものであることをこの詩は、よくあらわしています。私たちは、毎日あくせくと目に見えるもののみを追い求めるのではなく、目に見えないものに、目を注ぐ心のゆとりを持たせていただきたいものです。
「私たちは見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつ迄も続くからです。」コリント人への第二の手紙4章18節
「神が共にいて行われたこと」(使徒行伝14章19節~28節)
パウロとバルナバは2年半にわたる伝道旅行をして、たくさんの教会を作り、これをしっかりと組織してもう一度地中海を渡って彼らを伝道旅行に送り出してくれた母教会であるシリアのアンテオケに無事かえってきました。(22節)そして、彼らは、(27節)「神が彼らと共にいて行われたすべてのことと異邦人に信仰の門を開いてくださったことを」証し下のです。彼らはそのアンテオケが(26節)「以前神の恵みに委ねられた送り出された所であった」ことを思い出したからです。彼らは、今までの伝道旅行でしてきたことを決して自分達の働きだとか、アンテオケ教会の働きだという風に考えていなかったのです。
事実、彼らは聖霊によってこのアンテオケから送り出されたのですし、ルステラ・イコニオム・ピシデヤのアンテオケの教会に長老達を立てる時にも(23節)「断食をして祈った後彼らをその信じていた主にゆだねた。」のです。彼らの働きは徹頭徹尾主イエス・キリストのみわざであったことを彼らはよく知っていました。
ですから、彼らはアンテオケの教会に自分達の活動報告をしたわけではなかったのです。
「神が彼らと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを」証ししたのです。彼らが、ここでアンテオケの教会の人々に語ったのは、神のなしてくださったみわざなのです。
神ご自身が自分達を通してなしてくださったみわざについて語ることが証しなのです。その証しによって、私たちは主にある兄弟姉妹たちと喜び、悲しみを分かち合い、そのことによって神を賛美し、神に感謝することが出来るのです。
私たちクリスチャンは神様から特別な使命を与えられ、この世に遣わされた者たちです。ですから、キリストの恵みの良い管理者として、委ねられた賜物を忠実に用い主の働きを続けさせていただきたいものです。そして、主が私たちと共にいてなしてくださった恵みを人々に証していく者でありたいと願うものです。
「苦境に打ち勝つ力」(ピリピ人への手紙4章8節~13節)
私たちの父なる神様は「賛美を住まいとしておられる」と詩篇22篇3節で語られています。
ですから、エペソ人への手紙5章19節などで、パウロは、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り、主に向かって心から歌いまた賛美しなさい。」と勧めています。私たちが大きな声で賛美するときに、本当に心いやされ解放されるのです。(ピリピ人への手紙4章12節~13節)「私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにもあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。」このようにパウロは宣言しました。
私たちも出来るだけ大きな声で宣言しましょう。「私は今回の困難なこの問題も主にあって必ず解決できる。困難なこの問題は、主にあって必ず勝利できる。主にあって私に出来ないことは何もない。」
出来るだけ大きな声で、繰り返し宣言しましょう。克服、そうすれば自信と確信が必ず与えられます。又、喜んでいる精神状態が最高の免疫力を発揮することが分かっています。
今、生かされていることに感謝し、自分の人生に特別な使命が与えられていることに感動すること。
これを実践すれば、すべての病を克服することが出来るとカールサイモント博士は語っています。聖書には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への手紙5章16節~18節)とあります。私たちが生きていること(生かされていること)をいつも喜び、感謝して生活すれば、どんな問題も解決することが出来るのです。
イエス・キリストも言われました。(マルコによる福音書11章23節~24節)「だれでもこの山に向かって『動いて海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ自分言った通りになると信じるならその通りになります。だからあなた方に言うのです。祈って求めるものは、何でもすでに受け取ったと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」私たちの人生は、私たちが期待し、私たちの心に思い描き、願ったとおりになるのです。ですから、どんなことがあっても、決して最後まであきらめないで明るい希望と強い確信を持ち続けて参りましょう。
そこから生み出される力は私たちが期待し確信したとおりの現実を作り上げていく神様の力です。
「自分の足で立ちなさい」(使徒行伝14章1節~18節)
「自分の足でまっすぐに立ちなさい」というパウロの大声で生まれながらの足なえが飛び上がって歩き出したのを見た群衆は、威厳のあるように見えたバルナバをギリシャの中心的な神であるゼウスと呼び、主に話す人であったパウロをゼウスの子であり、神々の使者だといわれているヘルメスに祭り上げてしまったのです。(13節~15節)たとえ、パウロが奇跡を行ったとしても、それはパウロ自身の力でも知恵でもありません。
パウロが自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主と信じ、まことの神に服従したことによって与えられたものです。ですから、礼拝されたり、祭られたりすべきなのは、(天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神)お一人だけなのです。
ルステラの町の人々はパウロとバルナバの必死の説得によって(18節)(ようやくのことで・・・彼らにいけにえをささげるのをやめ)てイエス・キリストを信じたようです。そして、今度はパウロとバルナバを神様としてではなく、神様の福音を伝える人として尊敬し、その教えをきくようになったのです。
私たちは、どうでしょうか。本当に信ずべき方を信じ、頼るべき方を頼り、服従すべき方に服従しているでしょうか。
我が家の宗教だから、あの人が信じているから、皆が行くから等という理由で信仰の問題を扱ってはいないでしょうか。信仰は、「自分の足でまっすくに立つ」と言うことです。信仰は、個人的に神様と向かいあうことです。
お正月には、明治神宮や熱田神宮、豊川稲荷にそれぞれ何百人という初詣の人があり、全国では全人口の70~80パーセントの人がまことの神ではない死んだ人や、伝統にまつわる者、狐の類を拝みに行っているのです。実に悲しむべきことであり、恐るべきことです。
この日本に生かされている私たちクリスチャンは、もっともっとしっかりとして、自分の足でまず自分の信仰を確立すると共に、パウロやバルナバのようにまわりの人々にまことの神に対する正しい信仰、イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝えて行く者でありたいものです。
「神の恵みにとどまっているように」(使徒行伝13章42節~52節)
「いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた」(使徒行伝43節)神の一方的な愛とあわれみによって救われた私たちは、はじめの感激と確信とを最後まで持ち続けることが大切です。私たちが神の恵みと愛に感激してクリスチャンになるということは、実はこの忍耐を要する信仰の生涯というマラソンレースのスタートを切ったというだけのことです。そして、マラソンでは、ほとんど必ずスタートの順序とゴールインの順序、顔ぶれさえもがすっかり変わっているのが普通です。そのことを考えると、いつまでも「神の恵みにとどまっているように」と勧めている聖書の勧告は、決して、人事ではありません。「いつまでも神の恵みに留まっている」という息の長いマラソンレースのことを考えると、この波風の多い一生涯を恵みから落ちない人というのは、やはり、神から特別に選ばれた人だという気がするのです。選ばれ、定められていればこそ、ここに踏みとどまれたのだ。というのがおそらく信仰をまっとうした人の持つ正直な実感ではないでしょうか。
パウロは、最初の説教の後喜んで集まっていた人々に誰かれの別なく「いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた」のですが、そのように聖書は、はじめの確信を最後まで持ち続けるならば、神の家族になれるのだと励ましたのです。要するに救いを確実にするためには、「いつまでも神の恵みにとどまっているように」すればよいのです。
しかし、残念ながらこの恵みから落ちてしまう人が出るというのは、(46節)にあるように、この神の命令を「拒んで自分自身を永遠の命にふさわしくないものと決めたのです。」と在るように、責任は、その人にあるのです。
これに対して、(48節)「永遠の命に定められていた人たちは皆信仰に入った」とあるのです。
この「定められていた」という言葉は、「自分自身を整えていた」とも訳せる言葉です。私たちは、この勧告に従って神の恵みに留まり続けることにおいて、永遠の命にふさわしく自分を整えながら、又、神様に整えられていく生涯でありたいと願うものです。
「罪の赦しの福音」(使徒行伝13章26節~41節)
神は、この人数の中から、私たちを救い出そうとするとき、新しい人数のグループを救い出す新しい絆をお定めになりました。
それが、イエス・キリストを信じる信仰の絆です。それは、ちょうど船が沈没して、大海原の真っ只中に放り出された哀れな乗客たちのところへ、救助船が来てロープにしっかりと結び付けられたイエス・キリストという浮き袋が投げ込まれたようなものです。滅びゆく人々の中で手を伸ばしてこの浮き袋に自分の身を預けこれをしっかり捕まえている人は、救われます。この浮き袋であるイエス・キリストを信ずる人々は皆、浮き袋を中心にして集められ、救い上げられ、もう、彼らを飲みつくそうとする荒波の恐怖、死の恐れからは、永久に解放されるのです。
この浮き袋を中心とするグループに信じて加わらない人は、滅びてしまうのです。もし、イエス・キリストというこの浮き袋がなかったら、私は本当にこの荒波を及び抜けるだろうか。
もし、あのイエス・キリストが生きてくださった人生がこの私のためで無かったとしたら、もし、イエス・キリストのみことばがこの私あてに語られた慰めの言葉でなかったとしたら、そしてもし、イエス・キリストがあの十字架で私の身代わりに罪を処理していて下さったのでなかったとしたら、それでは私は一人で生きて行けるのだどうか。私は一人で死んで行けるのだろうか。もし、イエス・キリストを私の救い主と信じなければ、私の人生も、世界も何もかも結局は分からぬことだらけになるのではないか。
要するに、私が生きるということはイエス・キリストを救い主と信じることなしでは、考えられないことではないだろうか。主、イエス・キリストがこの世に誕生してくださったことによって、世界も歴史も、人生の意味も全く変わりました。
このイエス様が与えてくださったどんな時にも変わらない救いの喜びを味わいながら、又これからも神様がどのように導いて下さるのかを楽しみ励んで行きたいものです。