5月15日(日)伝道礼拝メッセージより「神はわが助け」

宮内賢三牧師

 
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5月15日(日)伝道礼拝メッセージより「神はわが助け」要旨

「神はわが助け」(ルカによる福音書16章19節~31節) 
 ある金持ちが、毎日贅沢に遊び暮らしていました。彼の立派な大きな家の門前にラザロという全身おできで覆われた貧乏人が寝ていました。ラザロは、働く体力も、気力もありませんでしたので、せめて、お金持ちの食卓から落ちる物で、空腹を満たしたいと思っていました。
 やがて、この貧乏人のラザロは死んで天国に行きました。金持ちも同様に死んで葬られたのですが、その魂はハデスという火の炎が燃え続けている地獄に行きました。
 金持ちが苦しみながら、目を上げますと、はるかかなたにアブラハムとラザロが見えました。思わず、金持ちは、この信仰の父と呼ばれるアブラハムに向かって叫びました。「父アブラハム様、私を憐れんでください。ラザロが指先を水に浸して、私の舌を冷やすようにラザロをよこしてください。私は、この炎の中で苦しくてたまりません。」
 しかし、アブラハムの答えは、否定的なものでした。金持ちは生涯良いものを受け、恵まれていたにも拘らず、それを神のため、人のために用いなかったために、今は、このように苦しみ悶えている。それとは、対照的に生前悪いものを受けていたにも拘らず、神を呪わず、不信仰に陥ることの無かった貧乏人ラザロは、天国で慰められているというのです。
 ちなみに「ラザロ」とは「神が助けてください。」の意味です。聖書によれば、天国とハデスという地獄との間には、大きな淵があって、相互の行き来はできないのです。そこで、金持ちは、自分のことはあきらめ、その代わりにせめて、まだ、地上にいる肉親たちのところにラザロを送ってほしい。そして、自分の二の舞を演じないように、早く、警告してやってほしいと申し出ました。
 しかし、地上の肉親には、聖書が与えられています。救いに至るには、それで十分です。生きている者たちは、聖書に聞くべきです。
 私たちは、この金持ちとラザロのたとえから、死後の事柄について学ぶことができます。
 第一に、お金持ちを地獄に追いやった罪は、彼が何か悪いことをしたからではなく、何もしなかったことです。「なすべき正しいことを知って医ながら、行わないならそれは、その人の罪です。(ヤコブの手紙4章17節)
第二に死後、天国へ行くか、地獄に行くかは、その人の生前の生活によって決まるということです。即ち、不信仰の不正の罪を悔い改めて、神を信じるか、信じないかによって決まってくるのです。
 

5月8日(日)礼拝メッセージより「霊とまことによる礼拝」要旨

霊とまことによる礼拝」(ヨハネによる福音書4章13節~26節
 (神と礼拝するものは、霊とまことによってれいはいしなければなりません。)というとき、これは、実は私が礼拝できていることのうちに、その背後に神の力が働き、神のイニシヤティブが働き、神様が私を礼拝させてくださっており、神様がみ霊をもって私を信の礼拝者として、生み出してくださっているのだということを自覚しようではないかということです。
 私たちが、この礼拝において、讃美歌を歌い、祈りをささげて、神を崇めるだけではなく、まず、礼拝に来ることができたことにおいて、神を崇める感謝するのです。私が、神を父として、礼拝するものとされたこと、そのことにまず、神の御手を認め、神の導きを認め、そこに感謝と賛美をささげる・・・・・・このことがないならば、父なる神を霊とまことによって礼拝しているということには、ならないわけです。これは、ただ父なる神が求めだしてくださり、父なる神が見出して下さらなければ、できないことです。
 本当に、現代のような多事多難な忙しい時代の中で、私たちがこのように整えられて礼拝を守り続けることが、できるものとされていること、これは、考えれば、奇蹟であります。今の時代に誰が私たちのようにこのように一週間の生活を整えてでも、父なる神を礼拝するために教会に集い、父なる神を崇めようと願うでしょうか。私たちが、こう願うこと自体まさに、奇蹟なのであります。
 父なる神が、これを求め、父なる神が私たちを真の礼拝者として生み出してくださいますから、兄弟姉妹が今朝も、このようにして一堂に会して、父なる神に礼拝をささげることができているのです。
 (神は霊ですから)日ごとに週の初めごとに、神は力強く働きかけてくださいますから、奇蹟を今日も起こしてくださいますから、私たちは、礼拝をすることが許されているのです。そして、ほかの六日間も神は力強く働いて下さいます。
 どうか、この感謝、この賛美をまずお互いに確認しあい父なる神に捧げたいと願うものです。

5月1日(日)礼拝メッセージ「永遠の命への水」要旨

「永遠の命への水」(ヨハネによる福音書4章1節~14節
 聖歌229番「驚くばかりの恵」を作詞したジョン・ニュートンはイギリス人で奴隷船の乗組員でした。お父さんがその奴隷船の持ち主でしたので、彼は12歳のころから、学校にも行かないで船に乗っていたのです。
 それからの少年時代から、青年時代にかけてのニュートンの生活はもうめちゃくちゃでした。お母さんは、イエス様を信じる人でしたが、そんなお母さんの気持ちも考えずに、自分のお好き勝手に生きて、ずいぶんいろいろな悪いことをしたり、奴隷たちをひどい目にあわせてばかりいました。
 ある日のことでした。おお嵐のため、ニュートンの乗った船が沈みそうになりました。その時、ニュートンは、生まれて初めて、真剣に祈りました。そして、今までしてきた悪いことを全部悔い改めて、イエス様を信じたのです。それから、6年後のある日、神様は、ニュートンに語りかけられました。「もう、あなたは奴隷船の船乗りをやめて、陸に上がって、牧師になりなさい。」そこで、からは、神学校に行き、牧師になりました。それからというもの、ニュートンは、本乙に心優しく、熱心で、愛に満ちた人になりました。ロンドンの人々は、心から彼を尊敬しました。又、ニュートンは牧師になってからたくさんの讃美歌を作りました。その歌は、今でも世界中の多くの人々に愛され、歌われているのです。
 心から、罪を悔い改めて神様に死がたったニュートンを神様は、すばらしい働き手として用いてくださったのです。ジョン・ニュートンもまた、イエス様から(生ける永遠の命への水)を頂いた一人と言えるでしょう。まさに、イエス・キリストだけが(生ける水)を与えることのできるお方であり、そればかりではなく、その人のうちで、泉となり、永遠の命の至水がわき出て、あふれて流れ出すのです。川となって流れ出るのです。
 なんという驚くべき約束でしょうか。事実このことは、聖霊によって現実のものとなりました。クリスチャンとは、まさにこの聖霊によって生かされ、心が満たされ、喜びがあふれ出るものとされているものです。
 何がなくても、どんな境遇の中でも、喜々として喜びと感謝に満ち溢れ、輝いた人生を勝利の人生を歩み続けることができるのです。

4月24日(日)イースター礼拝メッセージより「主イエス・キリストの復活」要旨

「主イエス・キリストの復活」(マタイのよる福音書28章1節~10節) 

 ある所に、とても幸せな平和な家庭がありました。お父さんと、お母さんと、それに4歳になる男の子の三人家族でした。
 お父さんは、とても子煩悩で、男の子をとても可愛がり、仕事の合間を見ては、よくキャッチボール、サッカーのボールを一緒に転がしたりして、遊んでやりました。男の子もそういうお父さんが、大好きでした。
 ところがある日、突然病院から電話がありました。お父さんが、交通事故に巻き込まれたのです。救急車で病院に運び込まれたときは、もう新でいました。それはそれはとても悲しいお葬式でした。お母さんは、もう立っていられないほどの衝撃で打ちひしがれていました。お葬式が終わりました。そして、親戚の人たちも、それぞれ帰っていきました。大きな家に、お母さんと男の子だけが、ぽつっとと取り残されたようでした。そののち、お母さんと、男の子は、もう身の置き場もないような寂しさに襲われました。
 ある日のことでした。お母さんが、廊下を歩いていくとお父さんの部屋のドアが少しあいているのです。「おや、おかしいなぁ」と思って、中をのぞくと、男の子が壁に向かって立っていました。手にグローブとボールをもって立って、いました。そこには、お父さんが事故に会う一週間前に、虫の知らせがあったのでしょうか。ある画家に描いてもらったおとうさんの肖像画がかけてありました。その絵に向かって、男の子は立っていたのです。
 黙って、お母さんは様子を見ていました。その時、男の子が目にいっぱいの涙を浮かげて言いました。「パパー、そこから出てきてよ。キャッチボールをして遊ぼうよ。」額縁の中から、もし、お父さんが飛び出してきてくれたらどんなにうれしいだろう。そして、三人家族がしっかりと抱き合ってあの温かい、楽しい、交わりと取り戻すことができたら、どんなにいいだろう。ところが、ありえないことが事実おこったのです。イースターです。よみがえり、復活です。死によって、すべてが終わるのではない。悲しみが大きければ、大きいだけ、深ければ、深いだけ、それだけ喜びも大きいのです。大逆転が起こったのです。まさに、額縁の中から、お父さんが飛び出して来るようなことが起こったのです。それが、イースターの出来事です。イエス様のよみがえりです。

4月17日(日)礼拝メッセージ「イエス・キリストの十字架」要旨

「イエス・キリストの十字架」(マタイによる福音書27章33節~46節)

「イエス・キリストはすべての罪の呪いから、私たちを贖い出してくださった。」(ガラテヤ書3章13節)
 人間は、血筋や、家柄によって救われるのではありません。人の心がけや、行いによって救われるのでもありません。ただ、私たちを罪の呪いから贖いだすために死んでくださったイエス様を神の子と信じる信仰によってだけ救われるのです。「誰でも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。古いものは過ぎ去って見よすべてが新しくなりました。」(コリント人への第二の手紙5章17節)とパウロは言いました。
 私はですから、本当に思うのですが、そのような血筋とか血統いだとか、先祖の祟りだとか、呪われているとか、あるいは、また、精神的な病だとか、悪い病気だとか、てんかんをもっているとか、そのようなものの何一つない、完全無欠な人というのは、一人もいないと思うのです。何一つ罪の遺伝を、病気の遺伝を、悪い因子を持っていない人なんかいないのです。
 ですから、私たちは、何も恐れることはありません。キリストの血潮は、すべての呪いから私たちをあがないだすことができるのです。そのためにこそ、イエス様はいばらの冠をかぶせられたので鵜s。
 では、十字架の上で流された血潮は何の為だったのでしょうか。
 これこそ、私たちの命を死から、永遠の滅びから贖いだすものであります。こうして、イエス・キリストの流された血潮によって、私たちの罪と呪いと死は、完全に征服され、神との和解がもたらされたのです。
 たとえば、いろいろな不幸があります。仲たがいがあります。妬みがあり、憎しみがあります。不和があります。お互いに愛し合わなければならない者同士の間でまた、憎しみも強くなるのです。夫が妻を愛することができない、妻が夫を敬うことができない。家庭の不和がある。あるいは、浮気があり、姦淫があります。子供たちが病気をしたり、非行に走ったりします。
 いろいろな心配があり、悩みがあり、苦しみがあり、痛みがあり、恐ろしい病気があり、そして最後に死があるのです。さまざまな背信行為や犯罪や、貧乏、差別…数えあげたらきりがありません。人間は、この世界は本当に呪われていると思うのです。
 けれども、私たちが、私たちの身代わりとなって呪われて下さったイエス・キリストをこの心の受け入れることができるならば、私たちは、すべてのの問いから贖いだされるのです。今、そのことを確信しようではありませんか。イエス様は、私たちを永遠の死から救い出すために十字架にかかって下さったのです。

4月10日(日)礼拝メッセージ「御子を信じる者」要旨

「御子を信じる者」(ヨハネによる福音書3章31節~36節)

以前、ある新聞に載っていたことですが、東京大学の精神科のお医者さんが、新興宗教の教祖のもとに治療に来る患者さんたちを診断したところ、確かに60~70パーセントは効いているということでした。
 外国の実験でもこういうのがあります。胃潰瘍の患者さんに看護師さんが薬を持ってきて、「この薬は効くか効かないかは、ちょっとわかりませんけれど」とあやふやな態度で、小麦粉を飲ませると、それでも20~25パーセントは、効くのだそうです。信ずるということは、たとえ、こんな怪しげなものでも、これだけの効果を確かに見せてくれるものです。だとすれば、生ける神様の言葉を私たちが、本気で信じるならば、70パーセントどころか、100パーセントの効果を発揮することに間違いありません。
 現代のクリスチャンである私たちが、もし、青白い顔をしていつも首を横に傾けて考え込んで生きているとしたら、大変残念なことです。もう一度、私たちは、イエス・キリストというお方は、天から来られた方であり、証しをなさる全能のお方であって、この(御子を信じる者)は、永遠の命を既にあじわっているのだという喜びと、確信とを取り戻させていただきたいと願うものです。
 確かに、現在は困難な時代であります。慎重を要する社会です。けれども、その中で少なくとも、聖書がはっきりと明確に教え、教会が述べ伝え続けている福音の確実性というものを私たちは、見失ってはならないのです。
 この真理の中に、この永遠の真理の中に、私たち一人、一人の生活を打ち立てて行きたい。これが、私たちの生活、私たちの家庭の岩なる土台であるということを改めて確率したいものです。

3月27日(日)礼拝メッセージ「永遠のいのち」要旨

「永遠のいのち」(ヨハネによる福音書3章12節~21節

聖書でいう(永遠の命)とは、いつまでも長生きすること、いつまでも永続する命ということではありません。幸い、現在は、医学も進んできて、平均寿命が80歳~90歳、将来まだどれだけ伸びるかわからないほどに長い命になりましたが、わたしたちは、それで本当に幸せになったと思っているでしょうか。長く生きるだけで、人は、決して幸せというわけではありません。(永遠の命)とは、罪をあがなってくださったイエス・キリストにある命、イエス・キリストとともに歩む生活のことです。
 イギリスの歌手として世界的に有名なクリフ・リチャードは、自分の人生を変えたイエス・キリストについてあるところでこう証ししています。「だいたい世間の人々というのは、私のようなタレントと言われる者たちはお金をたくさん持っており、豪華な家に住み、高級車を乗り回して、毎日楽しんで、喜びをもって暮らし、本当に幸福だと思っているようです。けれども、本当のことを言いますと、私が歌手生活の最高潮にあった8~9年前には、本当に何もない、なんとむなしいこれが、人生かと思ったものでした。私が、イエス・キリストにお会いし、その十字架の犠牲が私の罪の為であったと信じるまでは、私の人生が満ち足りているとは、どうしても言えませんでした。
 しかし、今日、私は、はっきり断言することができます。キリストは、ただで私を鮮やかに変えてくださっただけでなく、その変化は、私の前にすばらしい前進を約束してくださったのです。」
 クリフ・リチャードだけではありません。十字架のキリストを仰ぎ、受け入れるとき、私たちの生涯は、鮮やかに作り変えられるのです。私たちにとっての本当の問題は、周囲に命がないことではありません。周囲に悪がはびこっていることでもありません。自らの中に罪があって、その罪に自分が勝てないでいるということではないでしょうか。
 しかし、幸いなことに、救い主イエス・キリストは十字架の上にあげられて、私の罪に勝利してくださいました。イエス・キリストを信ずる者は、罪に勝利した罪から自由になった生命をイエス・キリストに会ってもつことができるのです。これこそ、キリストにある永遠の命と呼ばれるものです。

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